▼(その1はこちら)大ヒット曲「島唄」は歌詞全てに裏の意味 恥ずかしさと怒りから生まれた一曲 音楽家・宮沢和史さん(1)<復帰半世紀 私と沖縄>
宮沢和史(56)は1966年、山梨県甲府市に生まれた。沖縄については72年の沖縄の日本復帰、75年の沖縄国際海洋博覧会が記憶の片隅に残る程度だったが、小学校の時、ラジオから流れてきた「ハイサイおじさん」が最初の「沖縄」との出合いだった。聞いたことのない言葉に、聴いたことのない音階。県出身の歌手、喜納昌吉&チャンプルーズのヒット曲は「妙な手触り」として記憶に残った。
チャンプルーに「しっくりきた」
中学に進むと、さまざまな音楽ジャンルを取り込んで独自性を追求しようとする「ポストパンク」「ニューウェーブ」と呼ばれるロック音楽の潮流に夢中になった。ロックやスカ、レゲエといった異分野の音楽を「チャンプルー」する感覚が「しっくりきた」。
世界のテクノポップブームをけん引したイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)もお気に入りのバンドの一つ。メンバーの細野晴臣が手掛けたソロ作品の中に、沖縄音楽の要素を取り入れた楽曲があり、沖縄音楽と再び巡り合った。
「思春期の頃に出会った先輩の音楽家たちが沖縄にアプローチしていた。そこには何か音楽の水脈のようなものがある。そう思った」
86年、明治大学に進学するために上京し、ロックバンド「THE BOOM」を結成。東京・原宿の歩行者天国を中心にライブ活動を始めた。88年、レコード会社のオーディションに合格し、翌89年には最初のアルバムを発表した。
順調にキャリアを積んでいたが、音楽家としての葛藤を抱えていた。「海外のアーティスト、バンドのまねごとではない自分なりの表現とは何か」。バンドの方向性について模索を続ける中で、沖縄民謡への傾倒はさらに進んだ。
沖縄は「音楽の宝島」
レコード会社のスタッフが沖縄で買い付けてきた沖縄民謡のカセットテープをすり切れるほど聴いた。「歓喜」や「絶望」。沖縄に生きるあらゆる人々の「生活全て」を、唄者(うたしゃ)がウチナーグチと三線の調べで表現する民謡の魅力にとりつかれていった。
宮沢少年に「沖縄音楽」への扉を開いた喜納昌吉&チャンプルーズのライブも目の当たりにし、「圧倒的なエネルギーに衝撃を受けた」。
その頃には、沖縄を「音楽の宝島」と捉える意識が芽生えていった。沖縄音楽への憧れと、音楽家としての葛藤が交錯する、沖縄の土を初めて踏んだのはそんな時だった。
90年、3枚目のアルバムのジャケット写真の撮影のため、那覇空港に降り立った。
待望の沖縄だったが、感慨に浸る間もないまま、ワンボックスカーに乗せられ、本島北部を目指した。デビューして間がなく、多忙な日々を過ごしていた宮沢の当時の記憶はおぼろげだ。
ただ、車中で眠りにつき、撮影場所で目覚めた時の光景を鮮明に覚えている。車を降り、撮影に取り掛かろうとした瞬間、目の前を水牛を引いた老人が通り過ぎた。
白昼の炎天下をゆっくりと進むその様は「まるで芝居の一幕のようだった」。その経験を基に「ひゃくまんつぶの涙」という曲が生まれた。三線で紡ぐ琉球音階のメロディーを織り交ぜた「沖縄の影響下で作った最初の曲」だった。
現地を訪れたことで、沖縄音楽とともに沖縄そのものへの関心も急速に膨らんでいった。
ウージの下には…西洋音階にした理由
91年、「沖縄通い」を始めてから間もなく、糸満市の「ひめゆり平和祈念資料館」を訪れた。そこで沖縄戦の実態を初めて知った。
「ひめゆり学徒隊」として戦地に動員された女子師範学校、県立第一高等女学校の教師や生徒らの手記を目にし、人々の平穏な日常を奪う戦争の不条理を思い知った。
「生まれ育った山梨も空襲にあったが、沖縄に残る戦争の爪痕は故郷の比じゃなかった」
眼前に突き付けられた戦争の実相にうちのめされ、ひめゆりのような悲劇が無数にあった歴史を知らずに生きてきた、自身の無知を恥じた。
日本の高度経済成長とともに育ち、バブル景気に浮かれる世相の中で音楽家として世に出たことが「罪の意識が芽生えるぐらい恥ずかしかった」。恥ずかしさとともに湧き上がってきたやり場のない怒り。気持ちを静める手段は曲作りしかなかった。
沖縄戦を歌にすることは決めていたが、当時の音楽業界には、政治問題など議論を呼びそうなテーマを避ける風潮があった。「ヤマトが沖縄に何をしてきたのか」と歌っても、バブルの残滓(ざんし)が残る時代の空気にかき消される懸念もあった。「ただのアジテーションではいけない。文学にならなければいけない」。沖縄の情景を描いた歌詞には全て裏の意味を込めた。
Aメロとサビは琉球音階に、「ウージの森で」と歌うBメロは西洋音階にした。思い描いたウージの下には「集団自決」(強制集団死)があったガマがあった。
ガマの中で仲間が殺し合わなければならない不条理を歌う時に琉球音階を使うのは、沖縄の人々に対して「失礼だ」という思いがあった。
曲が完成した後も葛藤は残った。「戦後生まれのヤマトの人間」が三線を弾いて沖縄戦を歌う。「受け入れてくれるのか」と不安だった。
背中を押してくれたのは、沖縄音楽と出合うきっかけとなった喜納昌吉だった。「魂までコピーできていたら、それはモノマネじゃない」。雑誌の対談で掛けられた言葉で覚悟を決めた。
92年1月に発表した4枚目のアルバムに「島唄」は収録された。
同12月、喜納に訳を依頼し、一部を「ウチナーグチ」で歌ったシングルが沖縄限定で発売されると、爆発的なヒットとなった。沖縄での人気の高まりを受け、県外でも「ヤマトグチ」のシングルが発売され、思いもかけない広がりを見せた。
予想外のヒットによる反応はいいものばかりではなかった。「沖縄を搾取し、ひともうけしようとしている」。そんな批判も聞こえてきた。賛辞と罵倒。両方の声にさらされ、徐々に沖縄から足が遠のいていった。ブラジルや中南米の音楽に傾倒し、南米に通い詰めた時期もあったが、沖縄との縁をつなぎとめていたのもやはり唄だった。
沖縄民謡を残す
95年、八重山民謡の唄者、大工哲弘の呼び掛けで、那覇市が沖縄戦終結50周年事業として企画した「さんしん3000」に参加した。奥武山陸上競技場(当時)に三線を持った3千人が宮沢が作曲した「太陽アカラ波キララ」を合奏した。沖縄民謡の探求がやむことはなく、音楽を通した沖縄との交流は続いていた。
2011年には、沖縄民謡への向き合い方を変える決定的な出来事が起きた。東日本大震災だ。
それまでの日常が一変する様を目の当たりにし、「沖縄民謡をきちんとした記録に残したい」という思いが膨らんでいった。そうして始めたのが「唄方プロジェクト」。沖縄本島のみならず宮古、八重山など沖縄の島々の唄者の記録を残す壮大な計画だ。
マルフクレコードの普久原恒勇、キャンパスレコードの備瀬善勝らの協力を得ながら、一時、唄者として第一線を退いていた知名定男、生前最後の演奏となった登川誠仁ら貴重な「音の遺産」の記録を4年がかりで続け、16年、245曲収録の17枚組CDボックスセットとして結実させた。12年からは、読谷村で「くるちの杜100年in読谷」という植樹プロジェクトに関わっている。三線の原料となる「くるち」の木が枯渇している現状を聞き、100年後を見据えた活動を続けている。
植樹や苗木の手入れのため、コロナ禍に見舞われる前は毎月のように通っていたという。視線の先に見るのは次代を担う子どもたちの姿だ。
沖縄と関わりを持って30年になる宮沢の目に、日本復帰50年を迎えた沖縄の変遷はどこか「刹那的」に映る。だが、もっと刹那的な欲望が渦巻くのがヤマトであり、世界だ。77年前、豊かな島を焦土に変えた沖縄での悲劇の後も繰り返される紛争や戦争はその帰結なのか。沖縄戦体験者の「戦争をしてはいけない」という切実な思いを唄に託した宮沢の胸に去来するのは「むなしさ」だという。
「戦争が目の前で起こる様を見せつけられると、平和のために積み重ねた努力や涙、汗は無意味だったのかと思わされる。それでも自分はカンフル剤を打つ役目はできない。虚脱感を和らげるために何ができるのか。それが文化、芸能の役割なんじゃないか」
100年後、子どもたちが、植えたくるちの木で作った三線を手に取る未来を想像し「沖縄の文化芸能がいつまでも豊かなものであってほしい」と願っている。
(文中敬称略)
(安里洋輔)