「海の青さに 空の青」名曲「芭蕉布」に忍ばせた沖縄の1音 音楽家・普久原恒勇さん(1)<復帰半世紀 私と沖縄>


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音楽活動や復帰を振り返る普久原恒勇さん=4月19日、沖縄市の普久原恒勇音楽事務所(喜瀬守昭撮影)

 「海の青さに 空の青 南の風に 緑葉(みどりば)の 芭蕉(ばしょう)は情(なさけ)に 手を招く 常夏の国 我(わ)した島沖縄(うちなー)―」。戦後沖縄を代表する音楽家普久原恒勇(つねお)(89)は米国統治下の1965年、歌曲「芭蕉布」を発表した。琉球音階を用いた曲ではないが、節に1カ所だけ沖縄の音をしのばせた。そのためか、曲全体からウチナーの風が漂ってくる。「いくら沖縄から離れるといっても一音くらい入れたかった。思いつきだったかもしれないが、幸い、うまくいったと思う」

 ▼(その2はこちら)「アメリカ世になっても、ヤマト世になっても、ここが琉球であればいい」

 作詞は吉川安一。ハワイ生まれの県系3世の歌い手、クララ新川のために書かれ、琉球放送(RBCラジオ)で録音した。番組「ホームソング」の中で初めて放送された。日本復帰後の78年、NHKの「名曲アルバム」に取り上げられ全国に反響が広がった。その後も夏川りみら歌い手に広くカバーされ、多くの人に親しまれる名曲となった。  戦後、大阪で普久原は西洋音楽を学んだ。沖縄に帰郷後、「月眺み」「ゆうなの花」など、手掛けた作品は500曲以上に上る。復帰前後の混沌(こんとん)とした社会情勢の中、普久原は音楽と沖縄と正面から向き合っていた。

 (文中敬称略)
 (田中芳)


 72年に沖縄が日本に復帰して半世紀。世替わりを沖縄と共に生きた著名人に迫る企画の23回目は、県内外に沖縄の音楽や魅力を届けてきた音楽家、普久原恒勇さん。普久原さんの半生を追った。


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