元ひめゆり学徒が怒りの目で見つめた長野・松代壕 保存のきっかけは沖縄へ修学旅行した高校生たちが受けた衝撃


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松代壕の視察のため、長野県を訪れた際の写真。前列左から元ひめゆり学徒の宮良ルリさん、上原当美子さん、新崎昌子さん、新里啓子さん、島袋淑子さん、仲里正子さんら(1991年撮影、村上有慶さん提供)

 1980年代以降、松代壕の調査や保存に向けた運動は本土決戦のための「捨て石」となった沖縄を強く意識する形で進んだ。長野市の篠ノ井旭高校(現長野俊英高校)郷土研究班は85年、修学旅行で沖縄の戦跡を訪れたのをきっかけに壕の調査を始め、市に保存を要望した。「沖縄戦の悲惨さに衝撃を受け、戦争についてもっと知らなければいけないという思いに突き動かされた」と元顧問の土屋光男(73)=千曲市=は言う。生徒たちの働き掛けもあり、市は89年11月、壕の一部公開を始める。

 91年には、元ひめゆり学徒らが長野を訪れた。沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒らで編成された「ひめゆり学徒隊」は240人のうち136人が死亡した。大勢の命を奪った沖縄戦は何のためにあったのか―。松代壕を視察した元学徒たちは沖縄が「捨て石」になったという思いを強めた。参加した元ひめゆり学徒の仲里正子(95)は「沖縄は戦争で全部やられているのに、本土の上の人たちはこのような場所にいたのだと怒りをもって見た」と振り返る。

 視察した夜、「松代大本営の保存をすすめる会」(現NPO法人松代大本営平和祈念館)が「オキナワとマツシロに学ぶつどい」を開いた。元学徒の宮良ルリはつどいで自身の戦争体験を語り、「沖縄戦の地下壕があんなに惨めだったのに松代壕は大規模で、民衆のための壕と天皇のための壕の違いがはっきり分かった。朝鮮人労働者の痛みが一層胸に迫ってきた」と声を詰まらせた。

 つどいで司会を務めた元中学校教諭の飯島春光(69)=千曲市=は「沖縄との交流を機に、『国体護持』による犠牲の重さを意識し始めた」と振り返る。ただ、長野でのこうした動きは戦争体験者らの高齢化などもあり、次第に低調になっていく。それだけに、土屋は「壕を保存し、壕の中にたたずんだ若い世代が『自分も歴史の延長線で生きているんだ』と感じる場が必要だ」と強調。32軍壕についても「保存・公開するべきだ」と訴えている。

 沖縄では2019年の首里城火災を機に、32軍壕を負の遺産として残そうという機運が高まっている。たびたび保存公開が試みられてきたが、断念していた。県を再び動かしたのは戦争体験者や市民の熱意だった。「第32軍司令部壕の保存・公開を求める会」などの働き掛けで、県は検討委員会を立ち上げ、壕の調査と一部の坑口公開に向けて作業を進めている。

 同会はたびたび勉強会を開き、住民目線の32軍壕公開の意義や課題を話し合っている。6月28日、アウシュビッツ・ビルケナウ博物館の展示を参考に、国が犯した住民に対する加害の側面をどう展示するかなど意見を交わした。宮野照男(80)=浦添市=は米軍基地の集中を念頭に「沖縄は日本復帰後50年と米統治の27年の戦後77年間、本土の『捨て石』のままだ。沖縄は沖縄戦の延長にまだある」と力を込めた。観光客でにぎわう首里城の地下に眠る32軍壕。沖縄を犠牲にした国の過ちを刻み、地上戦で多くの人々の命が奪われた悲惨な歴史を未来に伝える場所として市民は保存公開を望んでいる。
 (敬称略)
 (信濃毎日新聞・渡辺知弘、竹越萌子、琉球新報・中村万里子)


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