「血の匂いがしない」長野の松代壕を訪れた元ひめゆり学徒のつぶやき 沖縄の壕とこんなにも違いがある理由


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松代大本営地下壕の内部=6月28日、長野市

 「貴軍の奮闘により、今や本土決戦の準備は完整せり」

 沖縄戦さなかの1945年6月21日夜、摩文仁で壊滅状態に陥っていた日本陸軍第32軍司令部に1通の電報が届いた。3カ月近い米軍との戦闘で時間稼ぎをした32軍に対する陸軍大臣阿南惟幾(あなみこれちか)からの訣別電報。電報は本土決戦勝利への固い決意で結ばれていた。32軍の牛島満司令官はこの翌日か翌々日に自決したとされる。

 大本営陸軍部戦争指導班の「機密戦争日誌」によれば、阿南は電報を打つ前の6月13日から信越地方に出張。訪問先の一つが、松代大本営地下壕(現長野市松代町、松代壕)の建設工事現場だった。松代壕は本土決戦では軍の指揮中枢となり、天皇が入ることも想定されていた。

 現場視察に同行した長野師管区司令官平林盛人(ひらばやしもりと)は壕の様子を回顧録に記している。「洞窟大本営はさながら大阪駅前の名店街のような立派なもの」で、天皇の「御座所」も「青大空のもと出来上って居った」

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 1991年1月。凍える寒さの中、元ひめゆり学徒や教員など約50人が視察団を組んで松代壕を訪れた。企画した戦争遺跡保存全国ネットワーク元共同代表の村上有慶(72)=北谷町=は、昨年亡くなった宮良ルリ(元ひめゆり平和祈念資料館館長)が「ここは血の臭いがしないね」とつぶやいたことを覚えている。動員された野戦病院壕は血と膿(うみ)と排せつ物の悪臭が充満。戦場をさまよい大勢の友人を失った。自分たちが体験した地上戦の惨状に対し、松代壕は規模も様相もあまりにかけ離れていた。

 沖縄戦と準備されていた本土決戦の目的は、天皇を頂点とする国家体制「国体」の護持であり、少しでも有利な条件で講和に持ち込むことにあった。45年1月に策定された作戦計画大綱では、沖縄を含む南西諸島を「皇土防衛ノ為」の「前縁」と規定。「本土決戦」の準備が整うまで敵を引きつける「捨て石」と位置付けた。

 平林の回顧録によると、松代壕の視察を終えた阿南は平林に声をかけた。「この大本営や御座所を、使用なさることなく終(おわ)れば結構だがそのときは、私共はかく迄(まで)準備しましたと一度陛下の行幸をお願いすることですね」

 昭和天皇は敗戦後の47年10月に長野市を訪れた際、当時の知事林虎雄にこう尋ねたという。「この辺に戦争中無駄な穴を掘ったところがあるというがどの辺か」
 (敬称略)
 (信濃毎日新聞 渡辺知弘、竹越萌子、琉球新報 中村万里子)


 琉球新報と信濃毎日新聞はアジア太平洋戦争の教訓を未来に伝えるため、連携した紙面づくりに取り組んでいる。沖縄戦を指揮した第32軍が拠点とした首里城地下の第32軍司令部壕と、この間、本土決戦に備えて造られていた長野市の松代大本営壕。二つの壕を通じ、当時の国体護持・軍国主義優先思想が沖縄を犠牲にし、多くの人々の生命を奪った事実や背景に迫る。


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