【ちむどんどん第73話】沖縄戦と収容所 朝ドラ「ちむどんどん」キーワード集【ネタバレ注意】


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米海軍の工兵だった男性が沖縄で撮影したとみられる「捕虜収容所で炊き出しをする人々」の様子(県平和祈念資料館提供)

 ちむどんどん第73話では、優子(仲間由紀恵)が、暢子(黒島結菜)、賢秀(竜星涼)、良子(川口春奈)、歌子(上白石萌歌)へ、沖縄戦前後の体験を語って聞かせます。 家族とはぐれて弟と2人で、米兵に捕まってしまった優子。「あちこちの収容所を転々とさせられて、いつもひもじくて、やがて弟も死んでしまった。うちがひとりぼっちになってしまって、もう生きる気力もなくなったころ」。現れたのが後の夫・賢三でした。房子(原田美枝子)、三郎(片岡鶴太郎)、田良島(山中崇)の戦前戦後の体験談も交錯し、見応えのある回でした。

 1945年4月1日、沖縄本島に上陸した米軍は戦闘を展開すると同時に、次々に住民や軍人らを収容していきました。米軍に保護された人は、捕虜(軍人・軍属)と避難民(非戦闘員)に分けられました。捕虜は屋嘉、楚辺、嘉手納、普天間、牧港、奥武山、小禄の捕虜収容所に収容され、一部はハワイの収容所まで送られます。一方、保護された避難民たちは本島12カ所、離島4カ所の民間人収容地区に収容されました。これらの地区以外は全て住民の立ち入りは禁止され、食糧と衣服は米軍から最低限が支給されましたが、十分ではなく、食糧が不足しました。衛生状況も悪かったため、マラリアや栄養失調で死亡する人が後を絶たなかったといいます。

 収容地区から元の居住地への帰村は45年10月から始まりましたが、基地建設との関係ですぐに戻れない人も多く、通行も規制されており、沖縄全体で昼間の自由通行が解禁されたのが47年3月、夜間の通行が許可されるようになったのは48年3月以降でした。

>>読者の沖縄戦体験をまとめた連載「読者と刻む沖縄戦」はこちら


>>【まとめ】ちむどんどんキーワード集

▼ちむどんどんってどんな意味?

▼復帰前の沖縄、映画館と遊園地はなかった?

▼意味深な民俗学者の一言「19年の空襲で…」って?

▼「とうしんどーい!」って何? 沖縄県民には結婚式や旧盆でおなじみの曲

▼「まーさん」と言えば…ピンクと黄色のあのマーク?