沖縄最後の官選知事、島田叡(あきら)が大阪府内政部長から沖縄県知事赴任を発令されたのは1945年1月。米軍上陸が懸念されていたが「俺は死にたくないから誰か行って死ね、とは言えない」と家族に語ったという。
警察部長・荒井退造の沖縄赴任は島田より早い43年7月だった。翌年7月、サイパン島が陥落。政府は南西諸島の老人、女性、子どもの島外引き揚げ(疎開)を閣議決定した。10・10空襲の後、第32軍は中南部住民の北部疎開を県に要求した。
住民は疎開に消極的だった。島田の前任、泉守紀知事も食糧確保が困難なことを理由に北部疎開に反対だった。第32軍と県の関係は悪化し、疎開業務に携わった荒井は苦慮した。この対立の中、島田は赴任した。第32軍の牛島満司令官が、旧知の仲だった島田を推したとされる。
45年2月、第32軍は住民の食糧確保と北部疎開の促進を県に求めた。島田は食糧確保と疎開に職員を集中させ、戦時行政が始まった。島田は台湾に飛び、米の移入交渉をまとめた。
島田と荒井は住民保護に努める一方、軍に協力し、県民の戦場動員にも主体的役割を果たした。45年3月、島田と第32軍などは「鉄血勤皇隊の編成ならびに活用に関する覚書」を結び、旧制中等学校や師範学校生の戦場動員への道筋をつくった。島田をトップとする大政翼賛会沖縄県支部が主体となり、警察部が推進役となって青年学校生による「義勇隊」の結成を市町村長や学校に指示した。
戦闘が厳しくなった4月27日、島田は県庁・警察部壕(那覇市真地)で南部地域緊急市町村会議を招集し「行政官は住民を飢えさせることだけはしてはならない」と述べ、食糧増産を指示するとともに戦意高揚を市町村長に命じた。
5月22日、首里に陣地を置いた第32軍は持久戦を続けるため本島南部への撤退を決めるが、島田は「住民の犠牲を大きくする」と反発した。しかし軍の方針は変わらなかった。
米軍上陸後、移転を繰り返した県庁・警察部は6月上旬、糸満の「轟の壕」で解散した。摩文仁の壕を出た後の島田、荒井の最期は分かっていない。島田は、投降を勧める新聞記者に「一県の長官(知事)として僕は生きて帰れると思うかね? 沖縄の人がどれだけ死んでいったか、君も知っているだろ?」と語ったという(田村洋三著「沖縄の島守 内務官僚かく戦えり」)。
住民保護に使命を感じつつも、軍の要求に応え、住民の戦場動員を進めた島田、荒井。多くの住民が犠牲になったことに何を感じたのか、戦後、自らの口で語ることはなかった。(稲福政俊)(敬称略)
沖縄戦の最中、県民の生命保護に尽くしたとされる島田叡知事と荒井退造警察部長。県民の命を救った「島守」として2人は語り継がれてきた。一方、日本軍に協力的で住民に犠牲を強いたという厳しい評価も出るようになった。2人を題材にした映画「島守の塔」が22日に東京で公開されるのを前に、島田らの戦時行政の功罪を振り返る。
▼島田賛美の論調 慰霊塔や顕彰碑建立の動きも 研究者らは戦争責任を指摘<島守の功罪―沖縄戦下の行政―>下