【ちむどんどん第85話】シベリア抑留を経験した沖縄出身者 朝ドラ「ちむどんどん」キーワード集【ネタバレ注意】


この記事を書いた人 Avatar photo 瀬底 正志郎
写真家の山田實さん

 ちむどんどん第85話では、三郎(片岡鶴太郎)が、暢子(黒島結菜)の働く店「アッラ・フォンターナ」のピンチを救いました。三郎は、店に来ていたやくざ者の権田正造(利重剛)一味に「それくらいにしときな」と一喝。遅れてやってきた権田は「平良(三郎)さんにはシベリアでお世話になりました」と、三郎に頭を下げ、店から手を引くことを約束し去って行きました。自身と房子(原田美枝子)を思っての行動に胸を打たれた暢子は、距離を置く房子と三郎の互いの誤解を解消させるべく、フォンターナで披露宴を開くことを決意します。

 権田が言っていたシベリアとは、第2次世界大戦終結時にソビエト連邦軍に降伏・逮捕された日本軍人らがシベリアで強制労働に従事させられた「シベリア抑留」のことだと思われます。約60万人が抑留され、極寒の地での強制労働による栄養失調などで約6万人が亡くなったとされています。厚生労働省がホームページに発表している「旧ソ連邦及びモンゴル抑留中死亡者名簿」によると、2022年7月1日時点で、シベリア地域で名前が判明している死亡者が3万9298人(うち沖縄出身者は106人)、モンゴル地域の名前が判明している死亡者が1461人(内沖縄出身者は3人)となっています。47都道府県全てにシベリア抑留経験者がいました

 沖縄を代表する写真家・山田實さん(1918年-2017年)もシベリア抑留を生き抜いた1人です。「山田實が見た戦後沖縄」(琉球新報社)によると、関東軍の部隊に配属された山田さんは1945年8月半ば、ソ連軍の捕虜になり、同年10月上旬にシベリアへ連行されました。同書には、飢餓状態の重労働で半年で98人が亡くなったことや、抑留生活中に社会主義国家について学ばされたことなどが記されています。山田さんは1947年8月にソ連から京都の舞鶴港に帰り、沖縄へ帰ってきたのは1952年11月だったようです。


>>【まとめ】ちむどんどんキーワード集

▼ちむどんどんってどんな意味?

▼復帰前の沖縄、映画館と遊園地はなかった?

▼意味深な民俗学者の一言「19年の空襲で…」って?

▼「とうしんどーい!」って何? 沖縄県民には結婚式や旧盆でおなじみの曲

▼「まーさん」と言えば…ピンクと黄色のあのマーク?