戦艦大和270人 沖縄「平和の礎」に刻銘へ  広島県が申請方針


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平和の礎(資料写真)

 太平洋戦争末期に沖縄へ向かう途中、米軍の攻撃を受けて沈んだ戦艦大和の乗組員の多くが、糸満市摩文仁の平和の礎に刻銘されていないことが分かり、広島経済大学名誉教授の岡本貞雄さん(70)らが広島県を通じた追加刻銘を働きかけている。既に同県出身者277人分の名簿を同県に提出した。同県は行政資料と照合し、ほとんどを追加刻銘者として沖縄県に申請する方針だ。これとは別に、岡山県も民間船で犠牲になった船員軍属15人の追加刻銘を申請する予定。海の戦没者を追加刻銘する動きが広がっている。

 平和の礎は、軍人や民間人、国籍の区別なく、沖縄戦で亡くなった戦没者の名前を刻銘している。1995年6月の建設後も追加刻銘を受け付け、96年は1968人が追加刻銘された。年ごとの追加数は徐々に減り、2012年以降は2桁で推移していた。広島県や岡山県の申請が認められれば、23年は12年ぶりに3桁になる。

 戦艦大和は広島県呉市で建造され、1941年12月16日に完成した。当時、世界最大級の戦艦だった。45年4月5日に海上特攻作戦が発動され、沖縄に向けて出港したが、同7日に米軍の攻撃を受け、鹿児島県の坊ノ岬沖で沈んだ。

 戦艦大和の戦没者は3千人以上いて、一部は平和の礎に刻銘されている。ただ、出身都道府県が複数にまたがり、それぞれの都道府県が別々に刻銘を申請していることから、はっきりとした刻銘者数は分かっていない。遺骨収集ボランティアの南埜安男さん(57)が船員軍属の刻銘漏れを調べる過程で、大和の乗組員2千人以上の刻銘漏れが判明。知人の岡本さんらがさらに詳しく調べて広島県に働きかけた。

 沖縄県は毎年9月ごろに各都道府県に追加刻銘の案内文を出し、各県は遺族の申告などに応じて12月までに追加刻銘を申請する。申請を受けた沖縄県は翌年3月ごろに審査会を開いて追加刻銘者を決定し、6月23日の慰霊の日までに刻銘作業を行う。

(稲福政俊)

<用語>平和の礎の刻銘対象者

 基本的に、米軍が慶良間諸島に上陸した1945年3月26日から降伏文書に調印した同年9月7日までに沖縄県の区域内で死亡した人が対象。県出身者は満州事変後の15年戦争の期間中、戦争により県内外で死亡した人も含む。他都道府県や外国出身者は、沖縄戦中や第32軍が創設されていた期間、南西諸島周辺で沖縄戦に関連する作戦や戦闘が原因で死亡した人なども対象となっている。

 


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