【ちむどんどん第102話】戦後の沖縄の学校給食 朝ドラ「ちむどんどん」キーワード集【ネタバレ注意】


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ミルク給食(那覇市教育史写真集より)

  ちむどんどん第102話では、妹・歌子(上白石萌歌)が、オープン間近となった暢子(黒島結菜)の沖縄料理店を手伝うため、上京します。やんばるでは、母・優子(仲間由紀恵)が、比嘉家で一人、「なんだかとてもひろく感じるね」と賢三(大森南朋)の遺影に語り掛ける姿が印象的でした。一方、姉・良子(川口春奈)が考案した、地元野菜を使った「うまんちゅ給食」がスタートします。しかし、残飯率が以前より増える残念な結果となってしまったのでした。

 さて戦後、沖縄の学校給食はどのようなものだったのでしょうか。

 戦後、沖縄の学校給食は1949年ごろに首里の一部で始まり、55年に県内の全小学校に広がりました。当時は米国からの「ララ物資」を活用した、脱脂粉乳による「ミルク給食」でした。60年に入り、パンとミルクの給食が始まります。おかずは子どもたちが家から持ってきていました。62年に豊見城村(当時)の上田小が県内で初めて、ミルクとパン、おかずを一緒にした「完全給食」の試みを実施し、次第に県内に広まっていきました。

 1972年、沖縄が日本に復帰し、戦後の学校給食を支えた米国の援助物資が終了すると、納豆など日本的な食材も登場します。76年に米飯給食が本格的に始まったことを機に、積極的に献立に郷土料理が取り入れられるようになります。そして、80年には県産牛乳が学校給食に利用されるようになりました。全国学校栄養士協議会が「郷土料理の日」を提唱した83年の給食では、地域ごとにソーキ汁やイナムドゥチ、フーチバージューシー、もずくのあえ物、タンナファクルーなどが各学校の給食で出されたようです。


>>【まとめ】ちむどんどんキーワード集

▼ちむどんどんってどんな意味?

▼復帰前の沖縄、映画館と遊園地はなかった?

▼意味深な民俗学者の一言「19年の空襲で…」って?

▼「とうしんどーい!」って何? 沖縄県民には結婚式や旧盆でおなじみの曲

▼「まーさん」と言えば…ピンクと黄色のあのマーク?

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