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父・亀次郎を胸に、豊かな沖縄求め 長女の瞳さん、カナダでの生活経て福祉活動に力<復帰50年 私のライフストーリー>4


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
「沖縄の人が豊かな生活ができるように頑張っている」との父・瀬長亀次郎の言葉を振り返る瞳さん=12日、大宜味村大保

 【大宜味】大宜味村大保の一軒家の「断捨離ショップ」。那覇市役所職員を経て1975年にカナダに渡り、美容院を経営するなどして40年以上異国で暮らした瀬長瞳さん(84)は、沖縄を代表する政治家・瀬長亀次郎の長女として那覇市で生まれ育った。

 「父はきれい好きできちょうめんな人だった。玄関の靴を並べていないと怒られた」と懐かしそうに話す。「弱者のために何かしたい」とリサイクルショップを始めた瀬長さんは自宅敷地内の店舗を丁寧に整理整頓し、来客をもてなす。
 「米統治下では福祉政策が不十分で、お金がない人は親類や知人から借金をする生活だった」と日本復帰前の沖縄を振り返る。「復帰を機に日本と同じような社会福祉が受けられるようになったが、安心して老後を送れるほどではない」

 那覇市の甲辰国民学校1年生のときに、戦火を避けるため宮崎県に母フミと弟と共に疎開した。疎開中に妹の千尋が誕生した。飢えと寒さに苦しみながらも戦後、沖縄に戻った。父の亀次郎と再会し、一家は玉城村親慶原(現在の南城市)を経て、那覇市楚辺に移り住んだ。
 「水道もなく、水くみは私の仕事。約300メートル離れた井戸に、重たい一斗缶を持って行き来するのがつらかった」

子どもを連れて実家を訪れた瀬長瞳さん(右から2人目)。亀次郎(左から4人目)は孫をよくかわいがっていたという=1968年、那覇市楚辺(瀬長瞳さん提供)

 米軍は戦後、基地建設のため「銃剣とブルドーザー」で県民の土地を強制収用し、ただ同然で使用した。米兵絡みの殺人や女性暴行事件が相次いでいた。県民の安全と権利を勝ち取るため、亀次郎は人民党を結成して県内各地を遊説し、団結と抵抗を訴えた。亀次郎だけでなく家族もCIC(米軍対敵諜報機関)に監視される毎日だった。

 米軍に協力的な保守派からは嫌がらせも受けた。小学生だったある夜、戸を激しくたたく音がした。「『亀次郎を殺してやる』と男の人がわめき散らしていた。怖くなって押し入れの中に隠れた」
 「なぜ政治家になったの。政治家にならなければこんな恐ろしい思いをしないでよかったのに」と亀次郎に尋ねた。「お父さんは、沖縄の人たちがみんないい暮らしができるように政治家になったんだ。瞳ちゃんもそのうち分かるようになるだろう」。諭すように言われたが、当時は理解できなかった。

 東京の高校を卒業し、帰県後、那覇市役所に勤めた。亀次郎は市長職を追放されていた。戸籍課や支所、社会福祉課、建築課などで子育てをしながら13年間勤めた。わが子を守るため、労働組合で公立保育所設置や産前・産後休暇を求めた。多忙だったが、手に職を付けようと働きながら美容師の資格を取った。

 「広い世界を見たい」という幼い頃からの夢をかなえるため、37歳でカナダに渡った。トロントに店舗と貸部屋を備えた3階建ての物件を構え、懸命に働いた。
 「ここでは誰も瀬長亀次郎のことを知らない。たとえ知っていたとしても後ろ指を指されることもないだろう。初めて自由を感じた」
 瞳さんは30年近くトロントで過ごし、なじみの客や近隣住民と親交を深めた。欧州やアジアなどさまざまな国にルーツを持つ移民国家カナダらしく、友人の人種もさまざまだった。

カナダで美容院を経営し、近所の友人らと交流する瀬長瞳さん(右から2人目)=2002年、カナダ・トロントの自宅(瀬長瞳さん提供)

 1986年、キューバで催された共産党大会に参加する亀次郎がトロントに立ち寄った。子どものころは生活態度などに厳しい亀次郎を疎ましく思うこともあったが、12年ぶりの再会に「飛び上がるほどうれしかった」(瞳さん)。県人会のメンバーが瞳さん宅に集まり、手作りの沖縄料理で亀次郎を歓待した。

 2017年に沖縄に戻った。20年4月に「北部地域の活性化を手助けし、障がい者の働く場をつくりたい」と一般社団法人「ヒトミワールドプロジェクト」を立ち上げ、同年6月から大宜味村で活動を開始した。カナダで収集を始めた世界中の人形のうち、50カ国の人形を今年5月、名護市に寄贈した。「子どもたちに人形を通して異国の文化や習慣を知り、世界に飛び立ってほしい」と期待する。

 恵まれない人たちのことを常に考え、動いてきた両親の背中を見て育った。その影響もあり、社会貢献に力を入れる。大宜味村大保の自宅の一画で運営するリサイクル店「断捨離ショップ」は20年11月にオープンした。寄付された洋服や未使用の食器類、骨董(こっとう)品などを販売し、利益を社会福祉活動に充てている。

 カナダで長年納税したため、現在はカナダ政府からの年金で生活に不安はない。だからこそ年金支給開始時期の見直しなど、日本政府の施策に疑問を感じている。
 「国民から取った税金をどんどん戦争の準備に費やし、社会福祉予算を抑えて国民に老後の不安を抱かせている。実際は沖縄は復帰しても何も変わっていないのではないか」

 沖縄の日本復帰について「まだ米軍基地があり、事件事故は起き続けている」と復帰前の日常と重ねる。「沖縄の人が復帰運動で望んだ『平和な島』はいつになったら実現できるのだろうか」。瞳さんはそうつぶやき、60年前の家族写真を見詰めた。 

(松堂秀樹)


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 戦中戦後、復帰をへて、さまざまな困難を乗り越えてきた市井の人にこれまでの歩みを聞く。