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渡米し医師免許取得、沖縄の医療支え…日米のはざまで生きた半生 比嘉純さん(82)<復帰50年 私のライフストーリー>3


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
「祈ることで神の存在を知ることができた」という比嘉純さん。畑の見回りに出掛けることが現在の日課になっている=5月19日、本部町伊豆味

 本部町伊豆味の八重岳に構えた教会兼住宅で緑に囲まれながら生活する、アドベンチスト・メディカルセンター(西原町)の元内科医で宣教師の比嘉純(あつし)さん(82)=北中城村島袋出身=は、太平洋戦争で父・栄保さんを失った。米国生まれの母トヨさんと、妹の敬子さん、弟の隆さんと共に戦後、米カリフォルニア州に渡り、日本復帰の年の1972年にロマリンダ大学医学部を卒業。沖縄に戻り、39年間地域医療に貢献した。

 米国の市民権を持つが「日本に復帰して良かった。米国でも『日本人だ』と言われ、うれしい気持ちになった」と日本復帰を肯定的に捉える。一方、医療を通じて協力関係にあった米軍基地に対しては、今も「沖縄に集中しすぎだ」と複雑な思いを抱く。

■父の戦死と中村家

 体格の良かった栄保さんは近衛兵として訓練を受け、しつけも厳しかった。ご飯に入っていた籾(もみ)を見つけ「食べたくない」とふてくされた態度を取った3歳の純さんはきつくしかられた。「目の前の食べ物だけでなく作った人の姿も想像し、感謝すること。当たり前のことを父から学び、人格形成に大きな影響を与えた」

 栄保さんは招集され、台湾の南のバシー海峡で戦死した。生き別れた家族は45年4月の米軍上陸に備え、北中城村の先祖の墓に隠れた。県系2世の米兵の呼び掛けに応じ、家族全員が投降した。「母もそうだが、移民して沖縄に戻った人が集落にたくさんいた。無抵抗の住民は攻撃対象でないことを知っていたので、結果的に多くの村民が助かった」
 戦後、トヨさんは純さんら3人の子どもを育てるため、父方の実家の中村家(72年に国指定重要文化財に指定)に身を寄せた。「豚小屋(フール)で用を足した時は、(豚に)食べられるのではと思って怖かった」

「沖縄の人を健康にしたい」との信念で働いていたという比嘉純さん(前列左から4人目)とアドベンチスト・メディカル・センターの同僚ら=1983年1月、西原町の同病院(比嘉純さん提供)

■無神論者

 中村家の三男だったトヨさんの父親は、1910年代に米国に留学。カリフォルニアで生まれたトヨさんは米国の市民権を有していたため、戦後は米軍基地内の商業施設に勤務し、子育てをした。

 純さんは普天間高校を卒業した58年、母の故郷である米カリフォルニア州に渡った。「新生活に胸を躍らせていたが、英語はなかなか上達しなかった。大学の学費を稼ぐため陸軍に入隊した」。入隊時に宗教を聞かれた。兵士が死亡すると、入信している宗派の牧師を呼んで祈りがささげられるためだ。友人が入信するキリスト教の一派・セブンスデーアドベンチスト教会が頭に浮かび、宗派として答えた。

 当時は無神論者だった。キリスト教信者を名乗る人と知り合うと、「神様がいるんだったら見せてくれ」とよく挑発した。衛生兵としてドイツ駐留中、キリスト教信者の同僚に神の存在を証明するようけしかけると、「祈れば神の存在が分かる」と言われた。

 ある日、ドイツで勤務していた米軍の病院に幼女が搬送されてきた。意識不明の状態でこれまでの経験上、長くは持たないと感じたが、ふと同僚の言葉を思い出した。
 「神様、もし本当にいるならこの少女を助けてください。それも私が退勤する時間までに」。仕事を終え、祈ったことも忘れて帰宅しようとした時、医師に呼び止められた。「ミスター比嘉、彼女が回復した」
 

母親のトヨさん(左)の生まれ故郷である米国に到着した頃の比嘉純さん(中央)と妹の敬子さん=1962年、米国カリフォルニア州(比嘉純さん提供)

■「沖縄のために」

 少女の「奇跡」に畏怖(いふ)し、神を信じるようになった。そしてもう一つ、重大な祈りがあった。「私を医師にしてください。沖縄の人たちの健康のために働きたい」。戦後の沖縄で栄養失調やけが、精神疾患などを抱える県民を多く見てきた。医療現場を経験し「沖縄の人を癒やしたい」という思いが頭を離れなかった。

 英語や資金力に不安はあったが、ロマリンダ大学に合格し、猛勉強と奨学金などの獲得で壁を乗り越えていった。「アメリカに渡っていなかったら医師にはなれなかった」

 76年に米国のセブンスデーアドベンチスト教会から、那覇市上之屋にあったアドベンチスト・メディカルセンター(84年に西原町幸地に移転)に派遣された。当時入手しにくかった抗生物質などを米軍の病院に融通してもらい、皮膚病の患者を数多く改善させたことから、同病院は「へーがさー病院」との愛称で、多くの県民に親しまれていた。

 専門は内科だが、そのほかの複数の診療科で精力的に働いた。2015年、39年間務めた同院を退職。「比嘉純先生サンキューパーティー」が開催され、同僚らに盛大に送り出された。

 米国で暮らす子や孫が7月に訪ねて来る予定で「早く会いたい」と笑顔を浮かべる。妻恵美子さん(78)と八重岳で静かに暮らすが、米軍基地が集中する沖縄の現状を思うと気持ちが沈む。

 「抑止力のため一定程度の基地は必要だが分散すべきで、沖縄にはあまりにも多過ぎる。事件や事故を起こしたら日本人と同じように日本の国内法で裁かれるべきだ」。復帰から50年たっても不平等がはびこる沖縄の現状を憂いている。(松堂秀樹)(随時掲載)


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 戦中戦後、復帰をへて、さまざまな困難を乗り越えてきた市井の人にこれまでの歩みを聞く。
 (随時掲載)