黒糖伝来400年 琉球王国支えた産業、恩恵は現代にも はじまりは王府役人の「危機感」


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サトウキビの搾り汁を大釜で煮詰める仲宗根聡さん=2022年12月18日、浦添市の仲宗根黒糖(喜瀬守昭撮影)

 沖縄の心象風景を描いてみる。空や海の青さと共に、陸地には風になびいて揺れる緑、サトウキビ畑が浮かんでくるのではないだろうか。しまくとぅばで「ウージ」と呼ばれるサトウキビから黒糖を生産する方法が中国から沖縄に伝わったのは、琉球王国中期の1623年。以来、製糖業は島々の暮らしを支え、沖縄の風土を形作ってきた。今年は儀間真常(1557~1644年)による製糖伝来から400年の節目を迎える。

 サトウキビの収穫が始まる12月ごろになると、黒糖工場では特有の甘い香りが立ち込めるようになる。仲宗根黒糖(浦添市)でもキビを搾って地釜で煮詰め、手作業で黒糖を作る。動力は電気などに替わったが昔ながらの製法が今に残る。

 同社の仲宗根聡さんは「ミネラルが多く苦味もある豊かな味わい。素材そのもののおいしさがある」と島の恵みの産物に胸を張る。

 現在の製糖業は白砂糖の原料となる分蜜糖の生産が主流で、黒糖など含蜜糖の生産は全体の1割程度。ただ、小規模離島などにおいて黒糖は特産品として、島の経済に大きく貢献している。

 県さとうきび対策本部の普天間朝重本部長(JA沖縄中央会長)は「台風に強いサトウキビ栽培は沖縄に適しており、貴重な換金作物でもある。製糖業を興した功績は計り知れない」と400年前を生きた儀間真常の先見の明をたたえる。

 琉球王府の役人だった真常は、1609年の薩摩による琉球侵攻に直面。国の将来を案じる中で新たな産業として製糖に注目した。田地奉行を務めていた23年に、自身の領地である真和志間切儀間村の住民を中国・福州に派遣して黒糖の生産方法を学ばせ、自宅で黒糖を製造した。

 その技術は琉球全土に広がり、王国を支える産業にまで発展。琉球王国の消滅後も主要な地場産業として県民生活を支え、恩恵は現代まで生き続けることとなる。

 400年後の現在、新型コロナ禍による観光需要の蒸発などによって、県内では黒糖の過剰在庫が問題になった。業界や関係団体が団結し、県外企業との協業による商品開発など新たな需要の創出や高付加価値化で危機に立ち向かう。

 真常は薩摩支配という琉球の命運を分ける危機に際し、国を支える新たな産業の礎を築いた。先人が示した進取の精神は、先行きが不透明な現代にも示唆を与えていると言えそうだ。
 (小波津智也)

(小波津智也)

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