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沖縄のコストコ、開業遅れナゼ?直面した78年前の爪痕「不発弾」 #昭和98年【WEBプレミアム】


この記事を書いた人 Avatar photo 慶田城 七瀬

 スパムやキャンベルスープを筆頭に、沖縄県内のスーパーにはアメリカ文化の名残を感じる品々が並ぶ。そんな沖縄に、国内外で人気の会員制の米系大手量販店「コストコ」が進出する。

 開業予定地は、沖縄本島南部の東海岸に位置し、市の地形がハートの形をしていることから「ハートのまち」の愛称をもつ南城(なんじょう)市。開業への期待や注目も高まる中、2022年末「開業延期」のニュースが飛び込んできた。

 原因は「不発弾」だ。78年前の沖縄戦で日米両軍によって打ち込まれ、いまだ地中に眠る爆弾のことをいい、全てを撤去するには約100年かかるともいわれている。2023年は昭和で数えると「昭和98年」。その「昭和」の爪痕が2023年のいまも、沖縄の開発に影を落としている。

「やはり出たか…」

 コストコは当初、開業は2023年秋の予定だった。しかし造成工事の途中、5発の不発弾が見つかった。

「やはり出たか…という感じでした」。

 コストコ社の広報担当者は不発弾が見つかった時のことをこう振り返った。「沖縄という場所柄(不発弾が)出るかもしれないということはある程度想定していた」(コストコ社広報)という。

 22年11月に南城市で開かれた住民説明会では、開業時期が当初の予定からずれ込み、24年夏を目指すことが報告された。

 その後、予定地では新たな不発弾は見つかっていない。もし見つかった場合の対応について、コストコ社広報は取材に対し「現時点で予定の変更はないが、今後見つかることがあればしかるべき対応のため、必要であれば予定の変更の可能性はある」と回答を寄せた。

 今回の予定地だけでなく、沖縄ではさまざまの工事のタイミングで、不発弾が見つかっている。発見された不発弾は、自衛隊によって回収され処理されるが、そのため周囲地域が交通規制や住民避難となることも珍しくなく、県民生活に影響を与えている。

 そもそも沖縄の不発弾の実態とはどのようなものなのか。 

那覇空港で4月17日に発見された米国製250キロ爆弾=2020年4月17日(那覇市提供)

「地震?」オフィスビルにまで響いた水中爆破の爆音  

 沖縄県消防防災年報の2020年版によると、沖縄県内にはいまも約1,906トンの不発弾が埋まっていると推定されている。

 発見現場からの除去や、回収された不発弾の爆破処理は、いまも沖縄では日常的に行われている。

  >>沖縄の国際通りを封鎖せよ!? 不発弾処理は年平均800件 過去には死亡事故も

 2022年12月22日、午後2時。ドーン!という音が響いた後、那覇市泉崎にある琉球新報社の建物がガタガタと揺れた。

「地震?」…。この日は那覇市泉崎から約3キロ離れた那覇新港ふ頭地区の沖合で7発の不発弾の水中爆破処理が行われていた。

 水中爆破処理の音や振動は市内のあちこちで聞こえたようで、那覇市役所には「大きな音は何か?」などの問い合わせが多数寄せられたという。

7発の不発弾を爆破処理する様子=2022年12月22日、那覇港新港沖(海上自衛隊沖縄基地隊提供)

 不発弾の処理作業は、土日など週末に行われることが多いが、今回は水中処理で、避難区域も港湾内にとどまったため平日に実施した。7発の不発弾を一度に爆破処理したが、市役所などが集中する那覇のオフィス街を揺らすほどの威力だ。

 不発弾処理の当日や前日、沖縄の新聞には処理作業を知らせる記事が掲載される。周辺住民に避難を呼び掛けたり、交通規制が行われるためだ。公共交通機関に影響が出ることもある。

不発弾処理が行われることを伝える予報記事(2023年1月22日付け琉球新報本紙)

 20年4月には那覇空港の第1滑走路への接続道路工事現場でも米国製250キロ爆弾1発が見つかり、沖縄発着路線14便が欠航、24便の遅延も発生した。

 2020年8月に那覇市の赤嶺トンネル工事現場から発見された米国製5インチ艦砲弾の不発弾処理が行われた際には、沖縄都市モノレール(ゆいレール)が作業時間中、一時運休となった。

相次ぐ爆破事故、死者や負傷者も

 これまで不発弾による事故も起こっている。

 戦後、沖縄で最大の事故として知られているのが、1948年8月に伊江島で起きた爆発事故だ。未使用弾を島外に運び出す作業をしていた米軍弾薬処理船(LCT)に積み込む作業中、爆弾が船ごと爆発した。民間の連絡船と同じ伊江港を利用していたため乗客、船員、出迎え客など死者106人、負傷73人、8家屋が全焼した。

 沖縄が日本に復帰して2年後の1974年には、那覇市小禄の聖マタイ幼稚園そばの下水道工事現場で起こった爆発事故は、幼稚園ではひな祭り会が開かれている最中に発生し、3歳女児や作業員4人が死亡、34人が重軽傷を負った。

 当時の琉球新報紙面からは当時の爆発の威力が伝わる。

1974年の下水道工事現場で起こった不発弾爆発事故について伝える琉球新報紙面(1974年3月2日夕刊)

 県民に衝撃を与えたこの事故をきっかけに、国や県、市町村や民間企業による「沖縄不発弾等対策協議会」が発足したほか、沖縄県の公共事業で磁気探査が導入されるようになった。

 しかし、2009年にも糸満市小波蔵の水道管工事現場で、沖縄戦当時の米国製250キロ爆弾が爆発し、掘削作業をしていた建設作業員の男性が重傷を負ったほか、現場に近い特別養護老人ホームでは窓ガラスが割れるなどの被害が出た。不発弾の危険と隣り合わせの状況が続いているのが実情だ。

真っ赤な地図

 「沖縄不発弾等対策協議会」の事務局を務める内閣府沖縄総合事務局のウェブサイトには、「不発弾等事前調査データベース」がある。

 これまでに見つかった不発弾の情報をまとめたもので、1971年からの発見情報が沖縄県の地図や航空写真上に落とし込まれている。ウェブ上で閲覧が可能だ。公共工事などで事前調査の安全確保のために立ち上げられた。

  筆者が琉球新報社のある那覇市泉崎の住所で検索し「発見弾」の項目を選択すると、地図上が真っ赤になった。

 赤い印をクリックしてみると台帳の情報が「1997年」「125キロ爆弾」、「1995年」「手榴弾」などと表示される。

 1944年10月10日、米軍の本格的な空襲で那覇市は家屋の9割が焼失、約600人の死者を出した。45年4月に米軍が沖縄本島に上陸してからは、各地で日本軍との激しい交戦が続いた。真っ赤な地図は、空襲や射撃がいかに激しかったかを物語る。 

内閣府総合事務局が管理する沖縄不発弾等事前調査データベース

 沖縄総合事務局の担当者に確認したところ、地図上で示された「発見弾」は、すでに処理されて現場には残っていないという。

 ただ、地図上で示された場所の不発弾が処理されたからといっても、その周辺については「全く残っていないとは言い切れない」とのことで、いまだ発見されていない不発弾が埋まっている可能性も示唆した。

日本軍の夜間爆撃に対し、米軍が対空砲火で交戦 =1945年(米公文書館所蔵)

発見件数は年間500件!完全撤去は遠く

 1945年3月末に米軍が上陸してから激しい地上戦が繰り広げられた沖縄。日本本土に投下した爆弾は推計16万トンとされるが、県のまとめでは、沖縄戦で使用された爆弾や砲弾は日本本土に投下されたのを上回る約20万トンとされ、約5%に当たる約1万トンが不発弾になったと推定されている。

 沖縄県が発行した2020年版消防防災年報によると、20年には514件、14.4トンが処理された。過去10年の処理重量は21~38トンで推移しており、毎年20トンペースで処理したとしても完全撤去には約100年かかる計算だ。

(慶田城七瀬)