【本部】本部町健堅の中村英雄さん(92)は毎年10月、さび付いたいかりの前に立ち、花を手向ける。瀬底島を臨む本部町崎本部に立つ、日本海軍の潜水母艦「迅鯨(じんげい)」の慰霊碑。1944年の10・10空襲で米軍の攻撃を受けて本部町瀬底東方沖300メートル付近に沈没し、乗員135人が死亡した。当時14歳だった中村さんはサバニで海にこぎ出し、漂流していた生存者を救助して対岸の瀬底島に運び続けた。「平和ほど尊いものはない」。海に投げ出され絶命した兵士らの最期を思い、手を合わせる。
いとこは陸軍の航空隊に所属していた。本部半島上空を飛行機に乗って旋回し、小禄の飛行場に給油に向かった。台湾を経由し、シンガポールに出撃した。「ずっと年上だったが、そういう姿を見たら『自分も飛行機に乗りたい』と憧れた」
■軍国少年
国民学校で学び、軍国少年だった中村さんは難関の飛行予科練習生(予科練)の試験を受け、44年3月に合格証書が届いた。「ゼロ戦を操縦し敵機を落としてやる」と使命感に燃えた。
集落の住民らは空襲を避けるため山に避難したが、中村さんは監視哨(しょう)での勤務を命じられた。10月10日は、仲間2人と船でトビウオ漁に向かっていた。午前7時ごろ、空襲の煙が上がるのに気付き慌てて引き返した。瀬底の浜の岩場に隠れていた中村さんは迅鯨から煙が上がった後、爆発するのを目撃した。
「乗組員が次々に海に飛び込み泳ぎ始めたが、船から漏れ出た油の中、もがきながら泳いでいた。機銃掃射で負傷している人もいた」。ボンボンと機銃掃射の音が鳴り響く中、中村さんはサバニで漂流する乗組員の救助を始めた。「一人でも多く助けなければ」。20~30回往復した。迅鯨は5日間燃え続け、海に沈んだ。
■米兵まねダイビング
「悔しい反面、『解放される』という喜びもあった」。迅鯨の爆撃の後、中村さんは入隊の45年1月に沖縄を離れ、県外で終戦を迎えた。大阪で空襲に遭うなどしたが生き延び、和歌山県の高野山で3カ月ほど訓練したが、「君たちが乗る飛行機はない」と言われ、結局出撃することはなかった。
解散命令後、宮崎県に疎開していた本部出身の人々などを頼って、17歳で沖縄に戻った。自宅は空襲でなくなっていた。兄と一緒にサバニに乗り、大浦湾などで漁を始めた。砲弾が大量に撃ち込まれ魚も死んでしまった西海岸と違い、東海岸はスズメダイなどが豊富に取れた。米と物々交換し、生計を立てた。
海人を経て、生活のためにうるま市天願の米軍施設で働き始めた。57年ごろ、米兵のまねをしてダイビングを始めた。米軍払い下げで道具をそろえ、本格的にダイビングを習得しようと月給20ドルの中から医学書を買い、潜水病などについて「目から血が出るほど勉強した」。
60年代、県内にダイバーはほとんどいなかった。琉球政府の屋良朝苗主席から直接相談を受け、県内で潜水士の講習会を開くことになった。時給は1ドル92セント。潜水士の国家資格制度の立ち上げや試験問題の作成にも関わった。
日本返還前の沖縄には海上保安庁がなく、海難事故が発生すると琉球警察や消防から捜索を頼まれた。東海大学や長崎大学、琉球大学のサンゴや魚類の調査などの依頼も舞い込む。「学生を指導してほしい」。琉大に請われ、技官として迎えられた。
■瀬底島に琉大研究所
迅鯨の沈没から27年後の71年、中村さんはかつて海に浮かぶ日本兵を運び続けた瀬底島にいた。沖縄の海洋や海産生物に関する教育、研究を担う琉球大学臨海研究所の設置を検討していた琉球大学が“海洋のプロ”の中村さんに意見を求めた。陸続きで琉大から移動が容易な大浦湾が候補に挙がったが、宮里松正副知事(当時)が「瀬底島はどうか」と進言してきた。
琉大の研究者と意見交換し、「本部方面は入江になっていて、魚類も回遊している」として瀬底島への整備が決まった。上間真好瀬底農協組合長(当時)が「研究所が来るなら橋が架かる可能性もある」と、瀬底島の有志で土地を用立ててくれた。施設は現在も琉球大学熱帯生物圏研究センター瀬底研究施設として国内外の研究者に貴重な研究機会を提供し続けている。
同じ頃、国際博覧会(万博)が、世界で初めて「海洋」をテーマにした特別博を沖縄で開催するという話が持ち上がった。日本返還を記念して開催される海洋博の開催場所が注目を集めた。海洋環境、用地確保、輸送などの条件に合致する糸満や読谷が有力視されたが、最終的に本部半島での開催が決まった。中村さんが本部町備瀬沖で撮影したテーブルサンゴの写真が選定委員をうならせ、決定打となった。
迅鯨の生存者や遺族と交流を続けてきた中村さんは、今年も慰霊碑に花を手向ける予定だ。「米統治は解消されたが、キャンプ・シュワブなど攻撃対象になる米軍基地が沖縄に集中している」と唇をかみしめる。「戦争体験者として、平和の尊さをこれからの世代に伝えたい」。中村さんは爆撃地点を地図上で指差し、切実に語った。
(松堂秀樹)
戦中戦後、復帰をへて、さまざまな困難を乗り越えてきた市井の人にこれまでの歩みを聞く。(随時掲載)