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「ウムイ」受け継いだ「柳」 河瀬直美エッセー <とうとがなし>(16)


「ウムイ」受け継いだ「柳」 河瀬直美エッセー <とうとがなし>(16) 談山神社の紅葉=20日、奈良県(百々武さん撮影)
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 沖縄ツーリストは今年創業65周年を迎えた。代表の東良和さんとは、3月にどさんこしまんちゅプロジェクトのフォーラムが開催されていた札幌のホテルでお会いした。その頃、私は琉球の文化に魅せられて足繁(しげ)く沖縄を訪れては紅型の工房や、房指輪やジーファーなどを手がける金細工職人の又吉健次郎さんとお話をする機会に恵まれていた。

 その中で、琉球芸能の世界では戦後に途絶えそうになっていた「柳(やなじ)」という演目を復活させ普及活動に勤(いそ)しんだ人の存在を知った。大正4年(1915年)生まれ、「柳」復活の頃は30代だった柳清本流柳清会初代家元の比嘉清子さん。そして彼女と交流の深かった野村流歌三線の演奏家が松田健八さんである。

 「柳」は琉球舞踊における様々(さまざま)な所作が散りばめられ、牡丹(ぼたん)や梅や柳という道具もたくさん使用される。いわばこの大曲には様々な琉舞の演目の基礎となる所作が内包されているのだ。琉球舞踊界には多くの流派が存在するが、比嘉清子さんは流派にこだわらず「柳」を広く普及させることで、戦後の舞踊界に大きく貢献した。それは戦前の先人が大切にしていたものの真髄(しんずい)を戦後の人々に分け隔てなく伝えた功績だ。見えるものと見えないもの。人の想いに代表されるように、表面的なものだけでは伝わらない何か。「型」や「道具」は大切だがその奥に隠されているものを観るものに伝えることが肝要なのだ。

 「柳」を披露する比嘉一惠さん(左)と仲村渠達也さん
=20日、奈良県の談山神社(百々武さん撮影)

 奈良には談山神社という紅葉の名所がある。沖縄からのツアーを企画し、藤原鎌足公から続く芸能の神様を祀(まつ)る権殿にて琉球舞踊の奉納を鑑賞いただくことができないかと、沖縄ツーリストの東さんに相談したところ二つ返事で承諾してくださった。

 おかげさまでツアーには30名を超える方々がお申し込みいただき、紅葉のピークを迎えるこの時期に、琉球と大和がひとつに結ばれる素晴らしい時間をお渡しすることができた。お客様から「ぬちぐすい(命薬)になった」いうお言葉をいただき、1年前から計画していたこのプロジェクトの成功を金子宮司とも喜び合った。何を隠そうこの宮司は真の沖縄好きで三線をたしなみ、島くとぅばを流暢(りゅうちょう)に話すので、ツアーのお客様も宮司のご挨拶(あいさつ)に頬(ほほ)を赤らめて笑い転げる瞬間もあって場は大いに盛り上がった。

 この権殿は人間国宝の能楽師も多く奉納される所である。かの坂本龍一さんも晩年は能に魅せられてここに足を運んでおられたと聞いた。そんな厳かな場所にて、おそらく初めて琉球舞踊を歌三線の伴奏ひとつで奉納されたおふたり。それが冒頭でご紹介した松田健八さんのお弟子さんである野村流歌三線の仲村渠達也さんと、比嘉清子さんのお孫さんであられる比嘉一惠さんである。

 一惠さんは来年1月20日に「二代目比嘉清子」として襲名披露公演をされる。そんな節目にここ大和の中心で初代家元が戦後に普及された「柳」を舞うことのご縁を涙ながらに語ってくださった。

 その涙は、この世界に伝えるものは表面的な所作だけではないということの表れなのだと悟った。仲村渠達也さんが比嘉一惠さんをご紹介くださったのは、師匠松田健八さんからの「ウムイ」を受け継いだものである。そしてこの先、先代家元の「ウムイ」を受け継ぎ渡してゆく覚悟を一惠さんは決心したようだった。お名前の「一」に託された、一惠さんの前に真っ直(す)ぐ見える一つの道を、談山神社のある多武峰の山間(やまあい)に昇り始めた上弦の月の神々しい光が照らしていた。

(映画作家)