【戦前の写真も】沖縄から鉄道が消えた理由


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 沖縄戦で奪われたものは、住民の命だけではなかった。戦前から沖縄の人々の暮らしを支えてきた重要な公共交通だった県営の県軽便鉄道(ケービン)も空襲などで破壊された。それらは戦後の米施政権下でも復興されず、日本復帰後も鉄軌道が敷設されることなく沖縄の車社会が形成され、深刻な交通渋滞を引き起こしている。

 現在はかつての鉄道に代わって、県都那覇市に沖縄都市モノレールが敷かれて新たな県民の足として利用されている。戦後72年がたつ現在は那覇市に隣接する浦添市へのモノレール延伸が着々と進められている。さらには那覇と名護の沖縄本島を南北で結ぶ鉄軌道の検討も進む。

公園整備で発掘された県軽便鉄道のレール。後方の機関車は南大東島のサトウキビ運搬用の車両=6月21日、那覇市壺川東公園

戦争で消えたレール 米軍は再建せず

 沖縄県内の鉄道は明治時代から民間資本での建設が計画されてきたが、資金不足などで計画倒れになってきた。民間敷設が困難な中で県による敷設が模索され、1914年(大正3年)に機関車が走る県軽便鉄道(後に県鉄道)の那覇―与那原線が開通。民間会社の沖縄電気軌道による電車も同じ年に走り始めた。

 軽便鉄道の敷設は、国が地方の鉄道網整備を目的に法規制を緩和した軽便鉄道法を制定したことで実現に拍車がかかった。那覇―与那原線に次いで那覇―糸満、那覇―嘉手納も開通し、営業距離は47・8キロ。本来は「ケイベン」と読むが、県民には「ケービン」「ケービングヮー」の呼称で親しまれた。

姫百合橋を行く県軽便鉄道と女学生ら(ひめゆり平和祈念資料館提供)

 那覇―与那原間の運賃は2等で18銭。定期もあり、通勤、通学の足としても利用された。高めの価格設定ということで無賃乗車もあったという。高学年の生徒が乗ると優先して席に座ることになっていたと、学生だった住民は語っている。

 当時の与那原町は、沖縄本島のやんばるからの船が入港する一大物流拠点。通常は機関車に、3両ほどの客車のほか、後ろに貨車も接続され、物流網としても機能していた。

 それが沖縄戦に入ると軍事物資の輸送路として活用されることになる。通常列車の合間に兵員や軍事補給物資を輸送する臨時列車が走った。軍事物資を載せた車両が爆発し、犠牲者を出す事故も起こった。

占領後の沖縄で県軽便鉄道に乗って興じる米海兵隊員=1945年5月(県公文書館所蔵)

 1944年10月10日の大空襲「10・10空襲」で那覇駅が焼失。唯一のコンクリート製の駅舎だった与那原駅も損壊した。嘉手納線は米軍の沖縄本島上陸を目前に控えた1945年3月23日ごろ、与那原、糸満線が28日ごろを最後に運行を停止した。

 15歳で沖縄戦を体験した具志堅貞子さん(86)=与那原町=は「毎週ケービン(軽便鉄道)に乗るのが一番の楽しみだった。那覇まで行って買い物をした。終戦後、ぼろぼろに崩れた与那原駅を見たときは何も言葉が出なかった」と小さな声で語った。

 戦後、沖縄を占領した米軍政府は、新たな輸送手段として鉄道復興を計画していた。

 志喜屋孝信・沖縄民政府知事からの要請に対し、ウィリアム・H・クレイグ軍政府副長官が「沖縄本島の運輸機関の欠乏は深刻で、軍政府も鉄道再建に必要な資材を獲得する特別な努力を続けている」と建設へ前向きな姿勢を示していた。しかし米側が鉄道を再建することはなかった。

沖縄県民待望のモノレール ウチナータイムに影響も?

 この沖縄に鉄軌道が“復活”するのは2003年の沖縄都市モノレール開通まで待たなければならない。

 那覇空港駅から首里城のある首里駅までを結ぶ沖縄都市モノレール(通称・ゆいレール)。かつての県軽便鉄道のように、沖縄県民の通勤・通学の足として活用されているほか、増加する観光客の利用もめざましい。

2003年に開通し、県民の足として定着したゆいレール

 2016年度の乗客数は、前年度比116万7086人増(7・22%増)の1732万3988人を記録、2003年の開業以来の過去最高を更新した。年間乗客数は7年連続で増えている。それに伴い2016年度決算では、売上高に当たる営業収益が過去最高となり、純損益は2億2053万円の黒字で開業以来で初めての単年度黒字となった。

 ゆいレールの定時運行が、時間のルーズさを表す「ウチナータイム」への影響を指摘する声も出るなど、県民生活に大きく影響を与えている。

 2014年10月には沖縄初のIC乗車券「OKICA(オキカ)」を導入した。SUICAなど全国的な交通系ICカードとは連携していない「独立系ICカード」だが、乗客の約4割が使用している。今後SUICAなどがゆいレールでも使える仕組みも検討されている。

それでも深刻な交通渋滞 新たな鉄軌道はできるか

 戦後72年がたった現在、沖縄県内では南北を骨格軸とし、那覇―名護間を1時間で結ぶ鉄軌道の導入が検討されている。県が7つのルート案を提示していて、利用者数や事業費などから最終的に1ルートに絞って計画案としてまとめ、国に整備を求める予定だ。

 鉄軌道導入により、県は(1)県土の均衡ある発展(2)県民や観光客の移動利便性向上(3)中南部都市圏の交通渋滞緩和(4)駐留軍用地跡地の活性化―などが図れると期待している。とりわけ交通渋滞は深刻で、平日の渋滞時の交通速度(混雑時旅行速度)の2012年度調査時に那覇市は時速16・9キロで、全国県庁所在地の中で最も遅かった。

 県は計画案をまとめるまでの工程を5段階に分類していて、現在、4段階目まで進めている。導入に当たり、初期費用が多額に上ることから、県は全国の新幹線で採用された公設民営による「上下分離方式」での事業着手を内閣府や国土交通省などに要望している。

 県は当初、2016年度中に計画案をまとめて国に提出する予定だったが、事業費などの比較に時間がかかり、ルートの絞り込みも含めていまだ決定しきれていない。

(滝本匠、当銘寿夫、嘉数陽)