「琉球人の遭難によって、『台湾出兵』の原因をつくったことを謝罪します」。2004年11月、台湾南部の牡丹郷で開かれたシンポジウムで沖縄大客員教授の又吉盛清さん(82)は頭を下げた。1874年、日本政府は台湾の先住民族(パイワン族)による宮古島の役人ら54人の殺害を受け、台湾に出兵。武力でパイワン族を制圧した(牡丹社事件)。又吉さんの謝罪は、沖縄が国策に利用され、戦争と植民地支配に沖縄の人々も加担してしまった反省から出た言葉だった。
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明治政府による台湾出兵は、琉球を日本の領土として清に認めさせ、台湾領有への足がかりにしようという狙いだった。初の海外出兵で清から賠償金を勝ち取り、1879年、琉球を併合(「琉球処分」)。1894年の日清戦争で台湾も日本に割譲された。
又吉さんは「日本は台湾出兵で日清、日露戦争と植民地支配への道を切り開いていった」と指摘する。
日本統治下の台湾に、沖縄からも大勢の警察官や教員らが渡った。社会構造で沖縄出身者は底辺に位置づけられ、先住民族を虐げる体制に組み入れられた。1930年、台湾の先住民族が日本の圧政に蜂起した「霧社事件」が起こる。日本当局は討伐隊を組織し、関わった先住民族らを一斉に殺害した。又吉さんは、討伐隊の中に3人の沖縄出身巡査が含まれていたことを突き止めた。
台湾でのフィールドワークは300回を数える。中国でも調査を行ってきた。見えてきたのは沖縄出身者が「日本の植民地支配の先兵にされ、加害者になった」という事実だ。
「沖縄の先人たちが侵略戦争に加担していく、近代日本の戦争の蓄積に沖縄戦がある。沖縄人は被害者でも加害者でもある。このことをもう一回受け止めないといけない。再び加害者にならないでくださいというのが私の願いなんです」
沖縄近代史の不幸な出発点となった台湾出兵について、又吉さんはパイワン族の人々に「いつか謝らなければ」と思うようになっていた。それが2004年の謝罪につながり、相手側の牡丹郷公所の郷長(村長)もその場で謝罪。又吉さんは収集した資料を牡丹郷に提供し、相互訪問や共同調査など交流を続けている。
事件を語り継ぐ牡丹郷の高加馨さん(50)は「又吉さんのおかげで互いの交流や考え方を知る機会が生まれ、沖縄の見解を理解することができた。尊敬する学者であり、牡丹郷の良き友人だ」と話す。ただ、日本政府からの謝罪はなく、歴史の清算は済んでいないとも指摘する。「重要なのは歴史から学ぶことだ。日本がわれわれの先祖にしたことを謝罪することを期待している」
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宮古島市のカママ嶺公園には、牡丹郷から07年に贈られた、パイワン族と宮古島の人々が肩を組む和平像がある。又吉さんは牡丹社事件から150年の来年、宮古島から愛と平和のメッセージを発信したいと考えている。地域で戦争や対立への懸念が深まる中、沖縄の針路をこう説く。「沖縄人がアジアに開かれた地位を確保し、積極的に連携・連帯を図り、共生を求めようとしている時期だ。自省を教訓とすることがアジアに生きる者の責務であり、相互理解と信頼を深めることにつながる」。沖縄独自の草の根交流が平和を紡いでいく。
(中村万里子、呉俐君)
(おわり)