<未来に伝える沖縄戦>兄が疎開を拒み小禄で死去 米軍機の進路見て逃げ惑う 照喜名マサ子さん(85)


<未来に伝える沖縄戦>兄が疎開を拒み小禄で死去 米軍機の進路見て逃げ惑う 照喜名マサ子さん(85) 体験を語る照喜名マサ子さん=9月30日、那覇市久米(小川昌宏撮影)
この記事を書いた人 Avatar photo 高橋 夏帆

 那覇市銘苅に住む照喜名マサ子さん(85)(旧姓・新垣、現・大井)は、那覇市西新町(現・那覇市辻、西)で育ち、沖縄戦の前年の1944年夏ごろ、家族と熊本県上益城郡御船町に疎開しました。熊本県では、寒さに耐え、頭上の戦闘機から避難しました。マサ子さんの話を、上山中学校3年の大濱彩音さん、宜保沙弥さんが聞きました。


 《マサ子さんは1938年9月23日に那覇市西新町で新垣家の3男4女の末っ子として生まれました》

 年の離れた長男の新垣盛一は徴用で大阪へ、長女のフミと次女の良子も県外の紡績へ出稼ぎに行っていました。家にいたのは、次男の盛幸、3女の澄子、3男の盛安と私の4人。父の盛松はお酒をよく飲み働かず、母のマヅルは子どもを育てるのに苦労しました。母は朝4時に肉を仕入れ、肉を切り分け、腸や内臓をきれいに洗い、各家庭に配達していました。母が家に戻るのは午後7時過ぎてから。炊事や洗濯などの家事は、知人がお手伝いさんとして来ていました。母は家にいる時はパナマ帽作りもしていました。

 《いつ頃かマサ子さんの周囲でも、徐々に戦争の足音が近づいてきました》

 自宅前の路地を歩いた先にある大通りでは、10~20人近くの女性が列になって、竹の棒のような物を「えーい」と言って、突き立てて訓練していました。大人たちが列になり、井戸から水をくんだバケツを手渡していく光景もそばで見ていました。父が44年4月に他界した時には、日本兵2人が線香を上げに自宅に来ました。缶の裁縫箱を定規で木魚のようにたたき、仏壇に唱えていました。自宅近くの大通り沿いが繁華街でしたので、酒飲みの父はそこで日本兵と知り合ったのだと思います。

 《44年の7月7日、米軍の攻撃でサイパン島の日本軍が壊滅しました。沖縄出身者を含め、多くの住民が犠牲になりました。政府は、沖縄を含む南西諸島から高齢者や子ども、女性を九州や台湾へ疎開させることを決定しました》

 5歳になった頃、家族とともに熊本県上益城郡御船町に一般疎開に行くことになりました。父方の祖母のマカと母、沖縄にいる子ども4人の計6人で行く予定でした。ところが、疎開の直前、13歳上の次男が「沖縄のため、日本のために戦う」と反対し、予定していた船に乗ることができませんでした。母が説得しましたが、兄は聞かず5人で疎開することになりました。今振り返れば、軍国主義の教えで言わされていたと思いますが、一緒に疎開して生き残ってほしかったです。母は疎開先でも兄の身を心配していました。戦後、沖縄に引き揚げた後に兄が那覇市小禄で亡くなったとの知らせを受けました。

※続きは10月18日付け琉球新報紙面でご覧ください。