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織りなす島の色 看護師から転身 首里織・野里愛子さん <伝統工芸製品・県指定50年>


織りなす島の色 看護師から転身 首里織・野里愛子さん <伝統工芸製品・県指定50年> 機織りをする野里愛子さん=2023年12月15日、那覇市首里当蔵町(ジャン松元撮影)
この記事を書いた人 Avatar photo 小波津 智也

 琉球王朝時代の交易から伝わった「織」の文化。各地で個性が育まれる中で、王都・首里では、技法が多種多彩に生み出された。「花倉織」「花織」「道屯織」「絣」「ミンサー」といった織物は、王家や士族の衣服として確かな技が求められ、現在は総称として「首里織」と呼ばれている。

 野里愛子さん(54)=那覇市=は、染織家となって15年。織に魅せられて看護師から転身した。祖母・福地クニさんは、大宜味村で芭蕉布を織っていた。「植物から糸を取り、編まれ、やがて布になる。不思議だった」。看護師に就いても染織家への憧れを断ち切れず、首里織の団体・那覇伝統織物事業協同組合の後継者育成事業を2006年に受講。08年から後に人間国宝となる祝嶺恭子さんの工房で腕を磨く。

首里絣の手縞(ティジマ)と呼ばれる経緯縞の中に絣の入った織物

 意匠設計や染色、製織など全ての工程を習得。丁寧な仕事が積み重なり格式が生まれる。縦と横の糸が織りなす表情は、素材や色の組み合わせによってさまざま。「沖縄の海や空や草木の色鮮やかさが好き」と島に根ざす色彩に刺激を受け、「織り色」の奥深さを実感する毎日だ。

 首里織の人気は高く供給が追いつかず、人材確保が課題だ。野里さんは仲間とグループを結成し、クッションやかばんの制作など日常に取り入れやすい製品を通じて首里織の裾野を広げる取り組みを続けている。現在、絣の中でも技術力が求められる「諸取切(ムルドゥッチリ)」に挑む。憧れを胸にさらに高みを目指す。

(文・小波津智也)(写真・ジャン松元)

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 1974年に県が染織などを「伝統工芸製品」に指定し今年で50年。技法や工程を受け継ぎ、今の暮らしにマッチした作品や身近な工芸の在り方を模索する担い手たちを紹介する。