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難破船物資で命つなぐ 米軍と区長交渉、降伏日決める<未来に伝える沖縄戦>


難破船物資で命つなぐ 米軍と区長交渉、降伏日決める<未来に伝える沖縄戦> 体験を語る平良幸雄さん=2023年12月18日、名護市宮里(小川昌宏撮影)
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 名護市為又に住む平良幸雄さん(87)は国頭村奥で育ち、1945年の沖縄戦中は集落内の山中で約3カ月間、避難生活を送りました。終戦後も十分な教育を受けられず、食糧不足に苦しみました。平良さんの話を大宮中学校2年の上原緒斗さん(14)、田名美羽さん(13)、金城飛羽さん(14)が聞きました。


 《平良さんは36(昭和11)年に生まれました。42年に奥国民学校に入学しました》

 当時の日本は軍国主義かつ天皇中心なので、戦争の話や天皇をあがめる皇民化教育が中心でした。私たちはそういった教育の中で国民学校2年生まで教育を受けました。

 44年10月10日の10・10空襲では本島北部も空襲を受けました。奥も被害を受け、50トンほどの船が沈没しました。その後しばらくは飛行機による空襲はありませんでした。

 《軍用の燃料として使うまきや炭を確保するため、日本軍の炭焼き部隊が集落に駐屯するなど、戦争の気配は44年後半から奥でも次第に濃くなります》

 戦争が激しくなると、日本軍の石師団薪炭作業隊(畑中隊)が集落に入りました。小さかったので正確に覚えていませんが、兵士は20~30人くらいだったと思います。日本軍は炊事の際に煙の出ない木炭を作らないといけなかったようです。奥を中心に辺戸や宜名真、楚洲にも分隊を置いていました。やんばるの人たちは那覇に炭を送る役目を担いながら、軍に関わる作業をしていました。

 戦争の気配が濃くなるに従い、国民学校の生徒も戦争に加担する作業が増え、自分たちは炭を束ねる縄を一日30尋作るのが義務でした。一尋は両手を広げたくらいの長さで、約1・5メートルくらいです。上級生は軍隊が座って隠れるような、1メートルほどの深さがある溝を集落の周囲を巻くように掘って、戦争ができるような態勢を整えていました。

 日本軍は駐屯地として国民学校を接収しましたが、子どもたちを教室外に出さなければ駐屯できません。そこで1年生から4年生までは集落の木炭倉庫や公民館など学校外で授業を受けました。木炭倉庫や公民館は毎日借りることができなかったので、そういった場合は木の下などで授業を受けました。

※続きは1月17日付け紙面をご覧ください。