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水を守ること 島の生命を守る 喜納育江(琉球大教授) <女性たち発・うちなー語らな>


水を守ること 島の生命を守る 喜納育江(琉球大教授) <女性たち発・うちなー語らな> 喜納育江
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 まとまった雨が降らない。梅雨までにダムの貯水率が25%を下回れば、30年ぶりの断水だという。台風時に蛇口から水が出ない絶望を何度も経験したはずなのに、北部に大きなダムがいくつもできてからはすっかり油断して、10年前に建てた家の屋上には、貯水タンクを設置しなかった。

 昔、カリフォルニアで、ほこりまみれの汚い車で現れた日系の友人に、「この人はこんなにユグラー(汚れを気にしない人)だったっけ」と思ったことがある。指摘すると、彼女は「干ばつだからね」と言った。なるほど。水不足の時はユグラーでいいのか。それを思い出し、私も今は堂々とユグリカーカーした車に乗っている。そして、蛇口から細く出る水で食器を洗いながら「被災地や戦地ではどうやって水を確保しているのだろうか」と想像する。

 戦後、復興途中だった沖縄から移民として渡米した人の話では、アメリカでのカルチャーショックの一つが「豊富な水」だったそうだ。どの家の庭も芝生が青々とし、家主がホースから出る大量の水で洗車をしていたという。そういえば私が留学していた90年代のペンシルベニアでも、富裕層の白人の家ではタイマー式のスプリンクラーで庭に自動散水していた。雨が降っても作動するのを見て、即座に「水がもったいない」と思う自分はやっぱり島人(しまんちゅ)だなと感じたことを覚えている。

 大きな河川や湖もなく雨水だけが頼りの小さな島では水を無駄にできない。私たちの祖先も、雨水を天の恵みとして尊ぶ島の文化を育んできたはずだ。私の研究する北米先住民文学にも「雨雲」は神からの贈り物であり、雨が降らないのは、傲慢(ごうまん)になった人間への警鐘で、神が雨雲をどこかに閉じ込めているからだとする物語がある。特に南西部の砂漠地帯に住む先住民は、人が亡くなると水を供えて弔う。死者が旅の途中で喉を潤せるように、そして、あの世からこの世に雨雲を届けてくれるように、と。

 沖縄の小雨傾向を私たちの日頃の行いのせいにするのは迷信だろう。しかし、地球上で水戦争さえ勃発すると言われるこの時代に、貴重な水源が基地からの有害物質に汚染され、開発や観光で海が汚されている現実は深刻だ。水への謝意と敬意を忘れた現代の島人(しまんちゅ)は反省すべき時にいる。島の水事情に頓着せず、大陸の習慣を持ち込んで節水しない基地の住人も、沖縄は水も無尽蔵な「癒やしの楽園」と誤解している旅人も然(しか)りだ。

 どこから来て、なぜこの島にいるのかは関係ない。雨乞いのクイチャーは、この島の水に命を預けている者みんなで踊らなくてはならないのだ。

喜納育江 きな・いくえ

 1967年生まれ、那覇市首里出身。琉球大学教授。専門は米文学、ジェンダー研究。編著書に「沖縄ジェンダー学」全3巻(大月書店、2014―16年)など。09年以降、大学や県の男女共同参画に関わり、23年より琉球大学副理事・副学長。