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慰霊の日を前に 背後で見守る人々の問い 喜納育江(琉球大教授) <女性たち発・うちなー語らな>


慰霊の日を前に 背後で見守る人々の問い 喜納育江(琉球大教授) <女性たち発・うちなー語らな> 喜納育江
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 この人こそが沖縄のリーダーだと思える女性と出会うことがある。ひめゆり平和祈念資料館の元館長で、昨年97歳で亡くなった本村つるさんもその一人だ。ひめゆり学徒隊の生存者として、戦後、同窓生とともに資料館の設立に尽力した人である。

 つる先生との出会いは、資料館が創設後初のリニューアルを行った20年前にさかのぼる。そこで私は資料館の全展示の英訳を任された。展示説明文は、元学徒の生存者が皆で話し合って作るという。他人任せにせず、自らの経験は自らの言葉で語るという姿勢はさすがだ。しかし、意見の違いを調整しながら文章をまとめる作業は困難を極めた。意見が割れたときに事態を落着させたのは、決まって本村つる館長の「つるの一声」だったそうだ。

 オープンまであと2カ月となってようやく原文が私のもとに届き、深夜まで研究室に居残って翻訳にいそしむ日が続いた。誰もいない真っ暗な建物。訳すのはよりによって「壕の中では、傷ついた兵士がうめき声をあげ」とか「静かになると傷口にたかるウジのひしめく音が聞こえ」というような、背筋も凍る内容である。背中に視線を感じて思わずふり返ることもしばしばだった。

 オープン祝賀会の場で、私はつる先生に「英訳作業を通して、いかに自分がひめゆり学徒隊のことを分かった気になっているだけで、実は何も分かっていなかったことに気づかされました」と申し上げた。すると先生は微笑(ほほえ)んで「喜納先生も勉強になりましたでしょう?」とおっしゃった。あのとき凍った背筋が今度はピンと伸びた。そして、深夜の作業で背中に気配を感じることもあったと伝えると、つる先生は「喜納先生の仕事を皆で見守っていたんですね」とおっしゃった。それはそれで想像すると変な汗が出たが、そうか、先生にとって級友の幽霊は愛おしい存在で、怖いものではないのだと合点した。

 病院壕で息絶えた兵隊たちの最期の言葉は「お母さん」だったそうだ。「天皇陛下万歳」と言って亡くなる人なんて一人もいなかった、とつる先生や元学徒の方々は語った。つる先生は生前「私たちはなぜあの戦争に行かなくてはならなかったのかと考えるんです」とおっしゃっていた。一見シンプルなその問いに、研究者も政治家も、まだ誰も明確な答えを示せていないと思う。その証拠に、地球上では今も戦争が繰り返されている。

 つる先生の問いは、過去に向き合う問いのようでいて、実はどの道が未来へつながっているかを見極めるための問いだ。そしてその答えを見つけるのは次世代ではない。今を担う私たちである。

喜納育江 きな・いくえ

 1967年生まれ、那覇市首里出身。琉球大学教授。専門は米文学、ジェンダー研究。編著書に「沖縄ジェンダー学」全3巻(大月書店、2014―16年)など。09年以降、大学や県の男女共同参画に関わり、23年より琉球大学副理事・副学長。