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沖縄戦取材の教訓 記憶のバトンをつなぐ 西銘むつみ(NHK解説委員) <女性たち発・うちなー語らな>


沖縄戦取材の教訓 記憶のバトンをつなぐ 西銘むつみ(NHK解説委員) <女性たち発・うちなー語らな> 西銘むつみ
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 若気の至りではすまされない取材をした。その時の猛省と教訓を胸に刻み沖縄戦の取材を続けている。

 記者2年目、もうすぐ戦後50年という頃だったか。沖縄本島南部の草むらにひっそりと立つ小さな慰霊碑のことを知り訪ねてみた。碑には数人の名前が刻まれていた。

 碑の由来を知っている人を探そうと、すぐそばに建つ住宅のインターホンを押した。玄関の中に通してもらうと高齢の女性が出てきたので、慰霊碑について尋ねてみた。すると、女性はいきなり声をあらげて「あんたにあの時の話をするくらいなら、あのガマで死んでおけばよかった」と半泣きで言った。声を聞きつけた女性の息子さんが奥の部屋から出てきて、「この人も仕事なんだから、話してあげたらいいさぁ」と、棒立ちになった私を仏間にあげてくれた。

 女性は、沖縄戦のさなか、家族でガマに身を潜めていたが、幼い子どもたちは命を落とし、慰霊碑に名を刻んだことを明かしてくれた。自分の命を賭しても守りたかったはずの子どもたち。戦後、どんな思いで生きてきたのか、玄関で向けられた言葉がすべてを語っている。その後も体験者の方々の取材は、断られることが常だった。

 県内で戦争体験者が語り始めるようになったのは、多くが戦没者の33回忌の頃からだという。法要で会い、自然発生的に互いの経験を打ち明けるようになっていったそうだ。

 取材のハードルが下がってきたと私が感じるようになったのは、戦後60年の頃だ。体験者の悲しみが癒えたからではなく「自分が生きているうちに話しておかないと」という切迫感からだ。子や孫の世代にあの惨劇を二度と繰り返させたくないという強い思いがあった。

 いま、当時のことを語ってくれた人たちの他界が相次いでいる。「戦争は急に来るんじゃなくて忍び寄ってくるの。その段階で気づかなくてはいけなかった」「平和は待っていては来ない、つくるもの」と、生前、力説していた。

 先月22日、93歳の男性を放送で紹介した。79年前のその日、日本軍は首里の司令部を放棄する「南部撤退」を決め、軍民が混在する中、住民の犠牲が拡大した。男性の育ての親はガマから出た直後、米軍の攻撃で亡くなった。「戦争が始まったら、どちらかが勝つまでやめられなくなる。だから、その前の対話が大事だ」と語った。

 若気の至り以降、多くの体験者が重たい口を開いて記憶のバトンを渡してくれた。そのバトンをより多くの人につないで、記憶の風化にあらがっていこうと思う。

西銘むつみ にしめ・むつみ

 1970年生まれ、那覇市出身。92年NHK入局、沖縄局、首都圏放送センターで、沖縄戦、戦後処理、教育、旧環境庁、旧沖縄開発庁などを担当。NHKスペシャル「沖縄戦全記録」で日本新聞協会賞。