鳴り響くサイレン音、立ちこめる煙。2004年8月13日、米軍普天間飛行場所属のCH53D大型輸送ヘリコプターが墜落した沖縄国際大で、ブレード(羽根)が壁に接触した本館周辺には米軍による規制線が張られた。規制線の外側には数十人の市民らが集まり、ものものしい雰囲気が漂う。
規制線が張られる前に本館内に入り取材をしていた琉球朝日放送の記者とカメラマンが米兵に連れられ出てきた。米兵は撮影テープを押収しようと2人と押し問答する。これを見た市民らから「こんなことを許すな!」「タックルセ!」と怒声が上がり、中には米兵に投石しようとする動きも起こった。
「まるでコザ暴動のような騒動に発展しそうな雰囲気だった」。現場を見た当時沖国大の産業情報学部長で学内の「米軍ヘリ墜落事件対策本部副本部長」を務めた富川盛武さん(76)=北谷町=はこう振り返る。
1970年のコザ騒動の翌朝には現場を見に行った。その時の様子を思い出し、市民と米兵が衝突する最悪の事態が頭をよぎった。その直後、米兵の上官が撮影テープの押収を制止したことで騒動は収まった。
騒動の少し前に、大学の対策本部が発足した。メンバーは墜落現場を確認しようと、本館の立ち入りを求めるも米兵が認めなかった。教員からは「ここは大学の私有財産なのに、どうして断る権利があるのか」と憤慨する声が上がった。
事故後、大学は混乱を極めた。米軍機部品に放射性物質が使われていることから外部の専門家を招いて環境影響調査を実施したり、米軍が墜落機をいきなり持ち去ってしまわないように、建物屋上で職員が24時間監視を行ったりした。調査で異常値は検出されず、米軍は県警の合同捜査要請を拒否し、事故2日後から機体の撤去を始めた。
在沖米海兵隊の副司令官が大学を訪れ、学長と面談したが副司令官は「不幸な事故だった」と述べるにとどまり、直接の謝罪はなかった。
後に学長となった富川さんは「日米地位協定に阻まれ、不条理の象徴のような事故だった」と強調する。大学は事故を受け、「普天間飛行場を使用する全ての航空機の飛行停止」「普天間飛行場の即時撤去」「日米地位協定の改定」を日米両政府に要請したが、何一つ実現していない。
「20年たっても何も変わっておらず、むしろ環境はますます悪くなっている」と声を落とす。せめて大学上空に米軍機を飛ばすのはやめてほしい。そう望むも、実現の道筋は見えない。
(梅田正覚)