2001年9月11日の夜(日本時間)。米ニューヨークのワールトレードセンターのツインタワーが航空機に次々に衝突され黒煙を吹いていた時、在沖米海兵隊広報官の携帯電話に連絡した。取るわけはないと思ったがすぐに担当者が電話に出て、私は「大丈夫ですか(Are you OK?)」などと尋ねた。午後11時すぎ、米海兵隊は米国防総省の最も厳しい厳戒態勢「コンディション・デルタ」を発表しており、電話口で告げられた「デルタ」の声が耳に残る。
台風の暴風雨の中、先輩記者らと普天間飛行場大山ゲートに行って取材していると、米兵が写真部員のカメラからメモリーカードを抜き去った。銃を提げた若い顔。暴風雨の中、カードを取り返そうと叫んだのは「話をさせてくれませんか(May I talk with you?)」。大規模テロと台風でこの世の終わりとみまごう状況と、場違いな言葉との落差。米兵はフェンスの隙間からカードを草の上に「ぽとん」と落としてよこした。
米中枢同時テロへの報復で、アフガニスタンでの戦争をはじめとする対テロ戦争は加速した。米国は日本に「ショー・ザ・フラッグ(旗を掲げよ)」と迫り、日本は呼応した。ブッシュ米大統領に「悪の枢軸国」と名指しされたイラク戦争が新たに始まったのが03年3月20日。翌04年8月13日の昼下がり、イラク戦争に関与していた普天間飛行場のCH53Dヘリが沖縄国際大学に墜落した。
当時は中部支社に所属し、取材で訪れていた担当の具志川市(当時)の市役所職員から事故を耳打ちされ、宜野湾市に向かった。知人から「大渋滞のようだから迂回(うかい)して行け」と言われ、午後4時前に近くの住宅街に路駐して、大学の第一駐車場の横から構内に入った。
「腰を抜かした」
その時すぐそばで、普天間飛行場のフェンスを跳び越えて現場に急派された米兵が墜落機周辺を規制し、大学や宜野湾市、県警を締め出していた。それを知ったのは後の話だ。当日の墜落現場の風景は、実際に見たかどうかも含めて、記憶から抜け落ちている。
駐車場の横の道を進むと、墜落後に構内にとどまっていた人々が歩いて来た。その1人が墜落現場の本館1階の事務室にいた派遣職員だった。「揺れた後、ごーっと音がして事務所の窓ガラスが割れ、炎が20センチくらい中に入ってきた。ショックで、腰を抜かしたが、何とか逃げた。窓側の職員は休みで、風圧でガラスの破片が飛んできたが、けが人はなかった」(04年8月14日付本紙朝刊)。彼女のことを折に触れ、思い返す。
海兵隊の事故調査報告書によれば、墜落の原因は整備不良だ。担当者は「1日に昼勤で14時間、夜勤で16時間勤務だった」などと戦時下の多忙を理由に挙げた。この20年で明らかなのは米軍機はある時、墜落するという事実。2012年に普天間飛行場に配備された問題機のオスプレイは県内外で墜落を繰り返し、人も亡くなっている。
空も海も大地もつながっている
世界の戦争は増幅の一途をたどる。米国と抜き差しならない安全保障同盟を結ぶ日本。基地が集中する沖縄の空も海も大地もずっとそれらの戦争とつながり続けている。
広島、長崎の原爆忌と日本の終戦に挟まれる沖縄の、ひいては日本の歴史の一つの震源地「8・13」。南海トラフ巨大地震臨時情報が発令され、危険な暑さと連呼され、ヘリ墜落から5度目の五輪が巡る夏に考える。新たな戦争と天災の世紀、幼子が傷ついて諦めたり、泣いたり恨んだりすることのない世の中を築くために他者と語り合い、心を交わしたり交わし合えなかったりしながら、どう生きるか。それが私の「8・13」だ。