1944年8月22日、対馬丸が米潜水艦の魚雷によって撃沈されてから80年を迎えた。疎開学童ら1788人を乗せ、那覇から九州に向かう途中に米潜水艦の魚雷によって撃沈された。犠牲者は氏名が判明しているだけで1484人。半数以上が子どもたちだ。
沖縄では1945年4月に米軍が沖縄本島に上陸し、悲惨な地上戦が展開されたが、海上ではその前から戦場となり、多くの県民が犠牲になっていた。戦意を失わないよう日本政府や軍は日本船撃沈の事実を軍事上の秘密として、生存者や遺族などの口を封じた。県民は、疎開や徴用などで米潜水艦が潜む危険な海に送り出された。そして現在、「台湾有事」などを理由として、住民の県外避難などを掲げる国民保護計画が進む。沖縄の近海で起きた海の戦争はどんなものだったのか。今につながることは何かをまとめた。
日本政府は2004年、外国からの武力攻撃と国民の生命や財産を守ることを想定し、国民保護法を施行した。現在、同法に基づき、「台湾有事」といった非常事態に備え、離島住民の県外への避難計画策定を進める。沖縄戦時における疎開と重なる。
計画では「武力攻撃予測事態」や弾道ミサイルの着弾があった際、先島諸島5市町村の住民約11万人と観光客らの計約12万人を九州7県と山口県に避難させる。
県などの試算によると、各空港の駐機スポットを最大限活用したり、船舶の臨時定員を調整したりすることで、平時の2倍を超える1日約2万人の島外輸送力を確保できる予定。約12万人の住民などは6日程度で避難する輸送力が確保できると見込んでいる。