自宅のあった小禄村(現那覇市)具志から名護町(現名護市)に避難した金城重正さん(93)=那覇市=は、母の静さんらと共に数久田に身を寄せていました。
第32軍の要請で県が1945年2月にまとめた中南部住民の疎開計画で小禄村民の受け入れ地となった名護町は、米軍上陸を前に避難小屋の建設を進めていました。
「名護やんばるの沖縄戦」(名護市史編さん委員会、2016年)によると疎開者のために350棟の小屋を建てたといいます。避難生活では食料不足が問題となります。
4月1日、米軍が本島中部に上陸し、7日には名護に侵攻します。金城さんらは数久田の轟の滝の付近に建てられた避難小屋に移ります。さらに久志岳の方面へ逃れます。
《避難中、名護数久田の生活も大変だった。避難小屋では4世帯くらいが同居した。避難小屋も攻撃を受け、久志岳の近くまで逃げたのを覚えている。》
飢えに苦しんだ末、久志岳付近で米軍に捕らわれます。「食べる物も何もない。6月、捕虜になってもいいと考え、具志の他の家族と一緒に山を下りた」と金城さんは語ります。
米軍に捕らわれた金城さんら家族は羽地村(現名護市)古我知に移り、戦後の生活が始まります。
防衛隊として動員された父の重雄さんは5月、西原村(現西原町)の幸地で戦死したことを後に知ります。