1944年7月、サイパンの日本軍壊滅で「絶対国防圏」が崩れ、政府は南西諸島住民の疎開を決めます。集団学童疎開も進めました。
南風原村(現南風原町)は270人の児童が熊本県や宮崎県に疎開します。
照屋で暮らしていた大城勇一さん(91)=宜野湾市=は疎開しませんでした。「父はおそらく区長あたりから疎開するよう説得されたと思う。しかし、死ぬときはみんなで一緒にという気持ちでした」と大城さんは語ります。
10・10空襲の日、照屋でも住民が壕に避難しました。「照屋が語る沖縄戦」(南風原町教育委員会、1994年)によると、米軍機を見た住民が綱引きに用いるドラをたたいて避難を呼びかけたといいます。
大城さんは「空襲警報のサイレンはありませんでした。飛行機が飛ぶので演習だと思ったら、日本軍の飛行機と翼の形が違う。黒い機体には星のマークがあるので、驚いて日本軍の壕に隠れました」と語ります。
若い住民は集落の北側にある高津嘉山から那覇の様子を見ていました。夕方、那覇を焼き尽くした炎で集落の西方の空が赤く染まったといいます。「日本は絶対に勝つ」と信じていた大城さんの心に疑念が生まれました。
「日本兵は敵が攻めてきたらやっつけてやると豪語していましたが、日本軍の飛行機は来なかった。弱者の大いばりだった。日本軍に失望しましたね」