1944年3月、南西諸島の防衛を担う日本軍の第32軍が創設されます。この年夏以降、沖縄の島々で日本軍の配備が進み、住民を動員した陣地構築が本格化します。
大城勇一さん(91)=宜野湾市=が暮らしていた南風原村(現南風原町)照屋にも日本軍が駐屯します。集落内の民家も日本兵の宿舎や倉庫になりました。
「照屋が語る沖縄戦」(南風原町教育委員会、1994年)によると、当時の集落の全戸数117戸のうち45戸が日本軍の宿泊や倉庫として使われました。住民はイモなどの食料を軍に供出したようです。
大城さんの家にも日本兵が宿泊していました。「兵舎がないから、各戸に日本軍が分散して宿泊していました。私の家にも、離れ屋敷に新潟出身の准尉がいました。准尉の食事を持ってくる当番兵がいたはずです」と大城さんは語ります。
大城さんら小学生も陣地構築に駆り出されました。「神里部落で壕掘りをしました。小さなばーきぐゎー(かご)を使って、手渡しで土を運び出しました」
大城さんが通っていた南風原国民学校にも日本軍が入ってきました。
「教室を兵隊に取られたので勉強どころじゃない。机と腰掛けを木の下に並べて授業をしました。『山ぬみー学校』ですよ」
その後、44年10月の10・10空襲で失った沖縄陸軍病院が南風原国民学校に移転します。学校もろとも日本軍にのみ込まれました。