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琉球王国の謎 新たな研究が幕開け 金城聡子(浦添市美術館学芸員) <女性たち発・うちなー語らな>


琉球王国の謎 新たな研究が幕開け 金城聡子(浦添市美術館学芸員) <女性たち発・うちなー語らな> 金城聡子
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 今年も元日は浦添グスク突端の「ワカリジー」(為朝岩ともいう)で日の出を拝んだ。うっすらと神の島・久高島が望め、東の水平線に太陽が上がり始めると、明るむ彩雲から鳳凰が舞い降りそうな雰囲気に包まれた。琉球の古い石碑や神女(ノロ、女性の神職)の漆器には優れた君主の出現を予兆する「日輪鳳凰雲文」が刻まれるが、まさにこの光景だと思う。

 この穏やかな年明けの直後に能登半島地震、翌日は日航機と海上保安庁機の炎上と全く予想がつかない災難が続き、被災された皆さまへは心からお悔やみとお見舞いを申し上げる。

 さて、浦添グスク北に王陵「浦添ようどれ」がある。統一国家以前の英祖(えいそ)王統と第2尚氏王統7代尚寧(しょうねい)王の墓で日の出の次に参る。尚寧さまは浦添グスクを居所とした王族家(浦添尚家という)から1589年に26歳で国王となり32年間在位した。

 王も波乱万丈。1609年の薩摩侵攻に敗戦し、捕虜として鹿児島へ連行されて江戸の徳川家康、秀忠へも謁見(えっけん)。2年後に帰国した稀有(けう)な国王である。帰国後に王府の組織改革は進み、貝摺(かいずり)奉行所や小細工奉行所といった大和風なネーミングの「奉行所制」が整う。自身は首里ではなく故郷浦添の古墓を改修して入られた。

 そして、グスク入口の沖縄学の父・伊波普猷先生の墓を参る。先生は「浦添考」の論文で浦添が首里以前の王都であることを明らかにした。首里城を「百浦添(ももうらそえ)」というのは、国を治むる所という意である。自治会の協力もあり、先生の墓はここにある。王国解体後、その歴史や文化は霧の中。先生ら先学により今があるが、復元中の首里城も謎が多い。

 王国の実相を知る重要な古文書(こもんじょ)がいくつかある。その一つ、京都大学所蔵の「琉球資料」は沖縄県と那覇市が翻刻し利用されている。中には王国後期の漆器製作仕様書「貝摺奉行所関係」が収録されていて製作目的、緻密な積算、漆器の図がある。

 「那覇市史 琉球資料(1)」1989年発行の解説に、担当者は「他に類似文書としては天理大学図書館に前後欠のものがある」と記し残した。首里城焼失直後の2019年11月、私はこの文書の現存を確認した。京大の文書を100年さかのぼる情報で、見たことがない漆器の図や独特な用語もある。現在、天理教教団と同図書館がこの重要性を理解され、公開に向けて修復作業を進めている。今年は改めてこの文書に対面し、よみがえる歴史の一助となる研究が幕開けする。