米軍が沖縄の日本復帰前の1966年に名護市辺野古沿岸部を埋め立て、飛行場建設を検討した「米海軍飛行場のマスタープラン(基本計画)」は、現行の辺野古新基地建設の青写真となったと称されてきたが、そう判断する決定打に欠けていた。元防衛事務次官の秋山昌広氏の証言で、現行計画のベースになったのは60年代の基本計画だったと言える。
60年代の基本計画は、72年の沖縄の日本復帰によって基地建設ができなくなる前に軍備増強を図ろうと策定された。ベトナム戦争による国防費の逼迫(ひっぱく)などを背景に最終的に実行されなかったものの、67年には米軍制服組トップの統合参謀本部議長が承認するなど重要な文書だった。
米側は日米特別行動委員会(SACO)で普天間飛行場の返還が浮上した際に、かつて頓挫した60年代の計画を日本側の費用負担で実行しようと画策したとみられる。
マスタープランでは大浦湾側の軟弱地盤の存在も指摘されていた。軟弱地盤の地盤改良も含む辺野古新基地建設に必要な土砂のうち昨年10月末現在で投入された量は全体の15・8%に過ぎない。現時点で9300億円と試算されている費用はさらにふくれあがるのは間違いない。
今後、新基地建設を論じる際には「米国が60年代に財政難で断念した計画の再来」という構図を念頭に置かなければならない。沖縄の過重な基地負担の歴史を表すと同時に、国民への説明が不足している多大な財政負担の問題にもつながる。 (梅田正覚)