1996年に米軍普天間飛行場の返還を決めた日米特別行動委員会(SACO)などの一連の交渉で、米側が60年代の米海軍飛行場のマスタープラン(基本計画)にあった名護市辺野古沿岸部への飛行場建設を日本側に提案していたことが、22日までに分かった。
元防衛事務次官でSACO共同議長を務めた秋山昌広氏が琉球新報の取材に明らかにした。60年代の辺野古沿岸部の埋め立て計画が、現行の辺野古新基地建設計画の原案として示されていた。
60年代の基本計画は、72年の沖縄の日本復帰で基地建設ができなくなる前に基地増強を図ろうと策定された。ベトナム戦争による国防費の逼迫(ひっぱく)などを背景に最終的に実行されなかったが、67年には統合参謀本部議長が承認するなど重要な文書だった。
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秋山氏は「辺野古の湾がほとんど埋め立てられるというような図だったので、瞬間的に『こんなばかなのできっこないよ』と言って投げ返した」と振り返った。米軍部からの提案は「本気だったと思う」と語った。
日米は96年12月、普天間飛行場返還に伴う代替施設として辺野古沖合に海上ヘリポートを建設することで合意した。
秋山氏によると、日本側は当初、米軍嘉手納基地への統合案を模索したが、米側が海上ヘリポートを提案してきた。
橋本龍太郎首相(当時)も「撤去可能な施設だ」として歓迎し合意したが、曲折を経て2006年に大浦湾側の沖合に延びるV字滑走路を建設する現行計画に変わった。
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秋山氏は、退官後に撤去可能な海上ヘリポート案が「撤去不可能」な海上埋め立て基地に変わった経緯には海兵隊の反対が大きかったとみる。
秋山氏はSACO合意から27年を経ても普天飛行場返還が実現しないことについて「沖縄からすると抜本的な基地負担の解消にはなってはおらず不満は大きいと思う」とした上で「代替施設が完成した後に軍民共用や将来の返還を求める議論を続けていくべきではないか」と語った。
(梅田正覚)