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【年表でひもとく】普天間飛行場の「返還・移設問題」って何? 発端は95年「米兵の少女乱暴事件」


【年表でひもとく】普天間飛行場の「返還・移設問題」って何? 発端は95年「米兵の少女乱暴事件」 米軍普天間飛行場(資料写真)
この記事を書いた人 Avatar photo 梅田 正覚

 米軍普天間飛行場の返還・移設問題は、1995年の米兵による少女乱暴事件に端を発する。その後、日米特別行動委員会(SACO)が設置され、96年12月に名護市辺野古沖合への海上ヘリポート案で合意した。当時の大田昌秀知事は98年2月に受け入れを拒否、代わった稲嶺恵一知事が99年11月、「軍民共用」「15年の使用期限」の条件を付け、辺野古移設受け入れを表明する。

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 その後、3年近くは埋め立て工法や、巨大な浮体のメガフロート方式などの工法が検討された。最終的には県の要求を取り入れる形で、沖合2・2キロのリーフ上に2千メートル滑走路を造ることを決めた。
 だが、台風接近による海上作業中断や反対派市民の阻止行動などで作業が難航、2004年8月の米軍ヘリ沖国大墜落事故を契機とした米軍再編協議で辺野古移設見直しが始まった。

 再編協議では「軍民共用」「15年使用期限」の条件は消え、05年10月、新たに住宅地から1キロ沖に1600メートルの滑走路一本を造る案で日米が合意した(L字案)。05年合意に至る前には、米側が提案してきた軍民共用空港案を縮小させた浅瀬案(名護ライト案)や、キャンプ・シュワブ内の陸上案など変遷をたどった。

 L字案から修正はしないとしてきた日米両政府だったが、当時の名護市長の強い主張で06年5月に、2本の滑走路を有するV字案に修正。これが現行計画となった。稲嶺知事の後継の仲井真弘多知事は13年12月に沖縄防衛局からの埋め立て申請を承認した。17年2月に辺野古沿岸部の埋め立て本体工事が始まった。

 防衛局は20年4月に大浦湾側の軟弱地盤改良工事に伴う設計変更申請を県に提出したが、新基地建設に反対する玉城デニー知事は21年11月に不承認とした。県と国は法廷闘争に入り、23年9月の最高裁判決で県が敗訴した。玉城知事は承認せずに国は同10月に代執行訴訟を提起、同12月に福岡高裁那覇支部が県敗訴の判決を出し、同12月28日に国土交通相は、県に代わり防衛省が出した設計変更申請を承認した。大浦湾側の埋め立て工事が開始できる状況になった。 

(梅田正覚)