沖縄「要塞化」の始まり…第32軍創設から80年 町や村は「カーキ色」に 重なる国体護持思想 <“新しい戦前”にしない・沖縄戦79-80年>


沖縄「要塞化」の始まり…第32軍創設から80年 町や村は「カーキ色」に 重なる国体護持思想 <“新しい戦前”にしない・沖縄戦79-80年> 1945年2月、米軍の上陸を前に日本軍第32軍の将校らで撮影した集合写真。2が第32軍の牛島満司令官、3が長勇参謀長(沖縄県公文書館所蔵)
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

 1944年3月22日、大本営は第32軍を創設した。沖縄を“不沈空母”にすべく県内16の飛行場建設にとりかかった。作業にかり出されたのは女性や高齢者だった。当時の様子について「沖縄新報」記者の仲本政基さん(1990年死去)は「第32軍の沖縄駐屯で沖縄はにわかにあわただしくなった。町や村にはカーキ色の日本兵がふえて、軍国主義一色にぬりつぶされた」と那覇市史に記す。

 牛島満司令官

 那覇港湾は暁部隊が管理し、朝鮮出身者らが使役に当たった。軍トラックが昼夜を問わず市街地をばく進したという。

 1944年7月にサイパンが陥落。8月、太平洋を伝って日本本土へ迫る中、「沖縄侵攻必至」が急速に叫ばれるようになり、大本営は第32軍司令官を牛島満に交代させる。

 牛島は着任早々、住民を含め一木一草まで戦力化すること、スパイ警戒など訓示した。

 国を守るため、住民を守らなかった日本軍。沖縄国際大非常勤講師で沖縄戦研究者の川満彰さんは、戦前の「国体護持」と現在の「国を守る」理論は重なっているという。「自衛隊は住民を守るのではなく、戦争するために配置されている。沖縄が基地の島になり敵対国からすれば攻撃対象地となる古今の戦略は変わらない」と指摘する。

 現在、政府は特定港湾の指定を進め、現在、那覇と中城湾港が有事の際に使用される見込みだ。
 緊張感が増せば当然、住民疎開計画は実践され、戦前と同様に何十万人という自衛隊駐屯のための校舎の明け渡しなどは起こり得る。川満さんは「アジアの歴史において日本は加害者であり、反省を顧みないことに気づかないと、平和を推進する外交はない」と指摘した。 (中村万里子)


 80年前の3月22日、沖縄戦の部隊・第32軍が創設された。隊員の多くは、多大な民間人の犠牲を生んだ南京攻略戦にも関わった兵士らだった。「南西有事」を名目に自衛隊の増強が急速に進み「新しい戦前」の到来を思わせる動きの中で、32軍を通し軍の実相を考える。


戦争止める報道 県民とともに考えます

 住民の4人に1人が犠牲となった、1945年の沖縄戦は2025年に80年の節目を迎えます。そんな中で政府は「台湾有事」をにらみ、沖縄の軍事要塞(ようさい)化を進めています。沖縄で進んでいる事態に対し「戦前が始まっている」との指摘があります。琉球新報は戦後80年を見据えながら、戦争を繰り返させない決意の下でキャンペーン報道を展開します。沖縄戦を指揮した第32軍司令部が創設されてから80年となった本日から、「新しい戦前」といわれる状況を踏まえ、戦争を止めるにはどうすべきか、キャンペーンを通して県民と共に考えていきます。

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