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「チエスト行ケ」 鹿児島方言が意味する「命令」とは “武勲”の裏側、語られず 沖縄への軍備増強、再び<“新しい戦前”にしない・沖縄戦79-80年>


「チエスト行ケ」 鹿児島方言が意味する「命令」とは “武勲”の裏側、語られず 沖縄への軍備増強、再び<“新しい戦前”にしない・沖縄戦79-80年>
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南京城を前に後の第32軍司令官牛島満がかけた「チェスト行ケ」のかけ声を書に記した掛け軸。鹿児島県の護国神社にまつられている。(「沖縄軍司令官 牛島満伝」より)

 鹿児島県の護国神社に、第32軍司令官となる牛島満による書の掛け軸が収められている。牛島は鹿児島市の生まれだ。

 「チェスト行ケ」

 1937年12月の南京攻略戦の際、鹿児島の兵士を鼓舞した命令で、「それ行け」という意の鹿児島方言である。牛島は日本軍の第6師団歩兵第36旅団長として兵士を率い、南京攻略戦に参加した。南京城陥落の際、城壁に上り、部下の兵士と共に万歳を三唱したという。

 牛島ら日本軍の「武勲」の裏で多くの南京市民が命を落とした。南京陥落は沖縄にも伝えられ、県民はちょうちん行列で戦勝を祝ったが、日本軍の蛮行は知らされることはなかった。

 1944年8月、沖縄戦を前に第32軍司令官に着任した牛島は戦争準備を進め、県民が飲み込まれていった。

 「チェスト行ケ」の掛け軸は牛島の「武勲」を今日に伝える。そのかけ声はさまざまな形で沖縄戦前夜の県民にも発せられた。県民を動員した陣地構築が進む一方、戦争の足手まといとなる老人や女性、子どもたちを疎開させ、民家や学校などの公共施設は兵舎などとして接収が進んだ。

 32軍創設から80年。「台湾有事」をあおる政府の軍備増強が進む沖縄に再び「それ行け」のかけ声が押し寄せている。