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「語れなかった戦争あるのでは」 斬り込み命じられた父 「鬼の子」の残酷さ 沖縄と南京の戦争に向き合う<“新しい戦前”にしない・沖縄戦79-80年>


「語れなかった戦争あるのでは」 斬り込み命じられた父 「鬼の子」の残酷さ 沖縄と南京の戦争に向き合う<“新しい戦前”にしない・沖縄戦79-80年> 日中戦争に従軍した叔父に当時授けられた表彰状。「武勲を立てたということは中国人を殺したということでもある」と複雑な思いを吐露する具志堅正己さん=18日、那覇市
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

 1944年3月22日、大本営によって南西諸島を管轄する第32軍が創設され、沖縄では住民を総動員し飛行場建設と陣地構築が進められた。沖縄に送られた兵力の大部分が中国戦線からで、南京戦に加わった第32軍首脳部もいた。アジアへの敵対戦略・膨張主義をとった当時行き着いた先は、日米の戦いで住民約10万人を含む二十数万人の犠牲を出した沖縄戦だった。“国を守る”思想で絡め取られ、死に追いやられた沖縄は今、軍備増強が進められている。国民保護を盾にした住民避難や特定重要拠点の港湾利用が目前に迫る今、戦争に至らない方策を探る。

 那覇市の具志堅正己さん(72)は昨年10月、中国・南京の長江(揚子江)のほとりにいた。叔父の信隆さんは23歳の時、この地で戦死した。父の興富(こうふ)さんも中国での従軍経験があったが、自身の経験を語ることはなかった。

南京近郊の長江。大勢の住民や捕虜が殺害され、川の水は真っ赤に染まったとされる。具志堅さんの叔父は右奥にある中州で戦死した=2023年10月

 「父にとって、語れなかった戦争があるのではないか」

 「南京・沖縄をむすぶ会」に参加し、興富さんと日中戦争の関わりを調べるようになった。南京訪問も「むすぶ会」の一員としてだった。

 叔父の供養と揚子江に向かって手を合わせたが、住民虐殺を招いた1937年の日本軍の南京攻略を記録する記念館を訪れ、複雑な思いに駆られた。「南京の行く先々で『鬼の子』と呼ばれた日本兵の残酷さを見せつけられ、言葉を失った」

 住民殺害、性的暴行、強奪。蛮行を伝える展示物に一人の軍人の名が刻まれている。牛島満、後の第32軍司令官である。

 具志堅さんの父、興富さんが鹿児島の部隊に入隊し、天津と南京の間の鉄道警備に当たったのは39年夏だった。そこで病を患い41年春に帰郷。その後、海軍軍属となり沖縄戦では斬り込みを命じられ、本島南部をさまよった。戦後、興富さんは南京での体験や沖縄戦体験を明かすことはなかった。

 台湾有事を名目に政府は沖縄で軍備増強を進める。具志堅さんは「暴支膺懲(ぼうしようちょう)(暴れる中国を懲らしめるとして中国との戦争を正当化するために日本の軍部が使った用語)」を叫んだ時代と今を重ねる。着々と進む自衛隊配備について「米国の口車に乗って中国を敵視し、南西シフトを進めることは許し難い」と話す。「加害者としての父を掘る」ことは「苦しい」。それでも「負の歴史を伝えなければ、同じことを繰り返す」という危機感から沖縄と南京の戦争と向き合う。

 (中村万里子)