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【記者ノート】地上戦に突き進んだ過去 今につながる「問い」 第32軍創設80年 くらし報道グループ 中村万里子


【記者ノート】地上戦に突き進んだ過去 今につながる「問い」 第32軍創設80年 くらし報道グループ 中村万里子
この記事を書いた人 Avatar photo 中村 万里子

 第32軍司令部壕の保存公開を求める会会長の瀬名波栄喜さん(95)は、1944年に第32軍ができた時、県立農学校生だった。授業がなくなり飛行場建設に動員され、10・10空襲で米軍に攻撃された。空襲警報が鳴ったのは爆弾が投下された後。だからこそ今の国のシェルター整備や避難計画は「間に合うはずがない」と警鐘を鳴らす。

 少年少女や住民を総動員して建設した日本軍飛行場は米軍が占領。瀬名波さんの造ったそれは米空軍拠点で極東最大の嘉手納基地となっている。そもそも沖縄には琉球の時代から戦争につながるものはなかった。近代日本が琉球を武力で併合し、植民地を広げていったために基地と戦争が持ち込まれた。

 それでも軍縮につながる機会がなかった訳ではない。22年の海軍軍縮条約で琉球諸島には新たな要塞(ようさい)や海軍の基地を置かないことが決められた。しかし日本は満州を占領し、日中戦争以降、戦争をやめることなく沖縄の地上戦まで突き進んだ。なぜもっと早くやめられなかったのか、その問いは今につながる。

 確かなことは日本が天皇制を守るために沖縄で時間稼ぎをした。そして住民や女性を蹂躙(じゅうりん)した差別や暴力は中国から沖縄に引き継がれた。沖縄は米統治下で基地が拡大し、対中戦争の最前線にされようとしている。日本が軍備増強を進める裏で南京や沖縄での暴力をなかったことにし、国に殉じた物語に仕立てられてはたまらない。

 鹿児島県の護国神社の掛け軸の優越感にひたる支配者・牛島の視線に打ちのめされながら、この視線を脱却しなければならないと強く思った。沖縄戦体験者らの焦燥感に耳を傾け、自分ならばどうするか考えていきたい。