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親子4人、沖縄に引き揚げる 瀬長フミさんと亀次郞さんの体験(6) 母と父の戦争<読者と刻む沖縄戦>


親子4人、沖縄に引き揚げる 瀬長フミさんと亀次郞さんの体験(6) 母と父の戦争<読者と刻む沖縄戦> 姉の瞳さんが幼少時に着ていた着物を手にする千尋さん
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 不屈館館長の内村千尋さん(78)=那覇市=と母フミさんら家族4人は疎開先の宮崎県延岡市で厳しい生活を送っていました。「母は沖縄から持ってきた着物を農家に持って行って、食料に換えてもらっていたようです」と語ります。

 琉球絣(がすり)や芭蕉の着物は喜ばれたようです。それでも千尋さんの姉の瞳さんが着ていた着物は沖縄に持ち帰りました。現在、不屈館で大切に保管しています。

 その後、千尋さんら家族4人は一時、福岡にいるフミさんの妹・正子さんの下で過ごし、沖縄に引き揚げます。千尋さんのお便りは次のように記します。

 《そのうちに、疎開者が沖縄に帰れるという噂が出始めました。私たちが福岡から長崎県佐世保へ行き、軍が使用していたという兵舎に着いた時は、ああやっと沖縄に帰れるという喜びでいっぱいでした。

 46年8月には中城村久場崎の海岸に上陸しました。》

 米軍の野戦病院を出た亀次郎さんは米軍が羽地村(現名護市の収容地区)に設置した収容地区・田井等市の助役・総務課長になりました。この頃、横暴な米兵の振る舞いを目の当たりにし、不信感を強めていきます。

 その後、亀次郎さんは糸満市地方総務の仕事を経て46年9月に「うるま新報」(ウルマ新報から改題、現在の琉球新報)の社長になります。前社長で後に日本社会党の参院議員となる島清さんの要望でした。