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「やっと日本人に戻れた」当時の式典に参加した高校生 奄美の日本復帰 「運動」の歴史、遺産に<奄美・復帰70年>


「やっと日本人に戻れた」当時の式典に参加した高校生 奄美の日本復帰 「運動」の歴史、遺産に<奄美・復帰70年> 「復帰は一丸となって勝ち取った素晴らしい奄美の遺産」と語る石神京子さん=14日、鹿児島県奄美市
この記事を書いた人 Avatar photo 新垣 若菜

 【鹿児島=奄美大島】クリスマスプレゼントと呼ばれた1953年12月25日の奄美群島の日本復帰の日、当時、大島女子高等学校の1年生だった石神京子さん(85)は、記念式典にコーラスとして参加した。バイオリンの音色に合わせ、ドラム音がけたたましく鳴り響き、それに負けないぐらいの大声で、復帰記念歌「朝はあけたり」を歌った。「やっと日本人に戻れたと喜びでいっぱいだった」。周囲の誰もがうれしそうにしていたのを昨日のことのように覚えている。

 終戦翌年の46年、米統治下となった奄美群島では軍政府が同年4月に食糧価格を3倍に値上げした。物価高騰で島民は厳しい生活を強いられた。石神さんもサツマイモやソテツがゆを食べる毎日となった。復帰がかなう53年に、高校進学を機に地元である大和村から名瀬に移った。その2年前に復帰協議会が立ち上がり、名瀬は復帰運動の熱にあふれていた。自身も友人らとともに参加した。

 「品物はすべて密輸で、学校の教科書ですらそうだった。日本人なのに、そんなことはおかしいとみんなが感じていた」と振り返る。

 8月にダレス米国務長官が奄美群島の日本返還の声明を出すと、島は喜びであふれた。復帰の日は、それまで振ることがかなわなかった日の丸が、ここかしこで振られていた。

 「日本復帰の歌」の2番は特に当時の島民の心そのものだという。「われらは日本民族の誇りと歴史を高く持し/信託統治反対の大スローガンの旗の下/断固と示す鉄の意志」

 石神さんは「遠かった日本が、空見れば、海みれば、日本につながっているんだと思うとうれしくて。今の人にはなかなか分からないだろうけど」。

 高校卒業後は名瀬市役所(2006年に合併で奄美市に)に勤め、市民や街の歩みを見つめてきた。

 現在は「奄美群島の復帰運動を伝承する会」の顧問を務める。思想や政治信条も関係なく、島民が一丸となって勝ち取った歴史を残していきたいと感じている。「気がつけば『語り部』と呼ばれるようになった。島全体を知っているわけではないが、この勝ち取った歴史こそが奄美の遺産となることを願い、後世に伝わってほしい」と話した。

 (新垣若菜)