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社内に「貿易部」 本土経由せず、各国にバイヤー メイクマンの独自路線<Who強者How強者 沖縄企業力を探る>2


社内に「貿易部」 本土経由せず、各国にバイヤー メイクマンの独自路線<Who強者How強者 沖縄企業力を探る>2 海外から直接仕入れた木材などの商品を説明するメイクマンの宮城社長=7月16日、浦添市城間のメイクマン浦添本店(喜瀨守昭撮影)
この記事を書いた人 Avatar photo 島袋 良太

 沖縄初のホームセンター「メイクマン」が誕生したのは1975年。前身の名護鉄工所がオイルショックの余波を受け、業界の先行きに不安を抱いた経営陣は新たな収益源を模索していた。当時、日本で初となるホームセンター「ドイト」が埼玉県に開店し、大盛況だという話を聞いた当時の岸本安正常務(後にメイクマン2代目社長)は早速現地を視察した。ドイトが主宰するホームセンターの共同流通機構「DMC」に加盟。県内で初、日本でもまだ9店舗目のホームセンターを浦添市の国道58号沿い(現在の本社所在地近く)に開店した。

 1号店は当初、名護鉄工所の新社屋として建設を進めていた建物だった。だがホームセンター事業に商機を見い出すと急転直下、利用目的を変更した。76年10月、メイクマンは名護鉄工所の小売り部門から独立し、法人として船出した。

ずらりと陳列された商品の工具類=7月16日、浦添市城間のメイクマン本社(喜瀨守昭撮影)

 「第2の創成期」は80年代。商品を独自のルートで仕入れることを志向し始めたことだ。

 それまでほとんどの商品をDMCグループから仕入れていたため、棚には本土と同じような商品が並んでいた。沖縄に合う独自の品ぞろえの必要性を感じていた岸本氏が主導し、「貿易部」を立ち上げた。バイヤーを配置して米国、ヨーロッパ、アジア各国に派遣し、直接商品を輸入する仕組みを次第に整えていった。96年にはDMCグループを脱会し、独自路線を歩む。

 海外製品の多くは日本本土を経由して沖縄に入ってくるため、輸送費がかさんで仕入れ価格も高かった。そこで本土を経由せずに直接仕入れ、価格競争力を高めた。

 現在取り扱うガーデニング用品はイタリアなどヨーロッパやベトナム、タイなどからの輸入が多い。「ガーデニング先進国のヨーロッパからはセンスが良く、丈夫な商品が安く手に入る。陶器などのデザインも良い」(宮城順一社長)。東南アジア産の鉢はリゾート感のあるデザインが人気だという。売れ筋商品の35リットルサイズの「黒鉢」は25年にわたり販売するロングヒット商品だ。

大きさや形など、さまざまな鉢=7月16日、浦添市城間のメイクマン本社(喜瀨守昭撮影)

 DIY用品の木材は加工しやすいホワイトウッドをカナダから、屋外向けのレッドウッドは米国から仕入れている。

 店長たちはほぼ全員、バイヤー経験者を登用している。逆にバイヤーになるには、店舗販売の現場を経験している必要がある。

 創業メンバーでもある宮城社長は、県内初のディスカウントショップ「ニューマン」の開店を87年に手掛けた。当時、定価販売が常識だった家電やゴルフ用品を最初から3割引きで販売し、既存店を含めた1店舗当たりの収益で、過去最高記録に導いた「ヒットメーカー」でもある。

 最近ではファン付きの「空調服」を県外の見本市で見付け、沖縄で初めて本格販売した。その斬新な見た目から最初は社内で笑われたそうだが、猛暑が続く中で建設業従事者を皮切りに多くの場面で愛用する人が増え、今や定番商品となった。

 社長となった今も「ホーム用品大国」の米国などに出向いて、自ら商品を買い付ける。ロサンゼルスには商品を一時保管するヤードもあり、「即決」で仕入れができる体制を整えている。

 国内の流通網を脱し、自らの道を歩んで強みを獲得してきたメイクマン。浦添市の本店敷地前に建立された石碑に、創業メンバーの一人である岸本氏が詠んだ句が刻まれている。「危なさやあしが 渡てみぶさん 浮世の橋」。時にリスクを取り、開拓精神を原動力にしてきた。

(島袋良太)