艦砲射撃始まり、山へ避難 照屋次央さん 山の戦争(20)<読者と刻む沖縄戦>


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本部町も狙われた10・10空襲の時に、家族が避難したイシミジ山

 1944年10月の10・10空襲は本部町も狙われました。港のある渡久地や瀬底にあった日本軍の船舶や軍の施設などが攻撃されます。渡久地は集落の7、8割が焼失しました。

 照屋次央(つぐひさ)さん(85)=浦添市=の家族は近くの山に避難していました。父の忠次郎さんが「沖縄県史」に残した証言によると、避難先は現在の伊豆味小中学校の北西にあるイシミジ山です。4、5日して集落に戻った伊豆味の住民は近くに避難壕を掘る作業を始めました。

 本部町の役場で働いていた忠次郎さんは一時、伊江島に動員されて壕掘りなどに従事しました。2週間ほどして本部に戻るよう命じられ、役場で日本軍のために働きました。

 45年3月23日、米軍の空襲が始まり、25日以降、激しい艦砲射撃が本部町の沿岸部を襲います。住民は山へ避難します。本紙に寄せた体験記で次央さんはその時の様子を記しています。

 《ヒューヒューと頭上を艦砲射撃の砲弾が飛来し始め、炸裂(さくれつ)音が耳をつんざき、編隊を組んだグラマン機が超低空で機銃射撃を浴びせかけてきた。

 びっくりして、私たち家族(祖父、父母と8人の兄弟姉妹11人)は食糧、衣類、鍋などを手分けして背負ったり、担いだりして、隣近所の家族と共に、平素心得ていたうっそうとした森の中の壕に逃げた。》

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