沖縄空手の源流の一つ、那覇手の流れをくむ劉衛流(りゅうえいりゅう)。劉衛流宗家五代の仲井間憲児さん(87)によると、200年余りの歴史があり、戦後まで一子相伝、門外不出を貫いてきた。憲児さんの父、四代憲孝が戦後に弟子を取るようになり、その一人がのちに道統五世となる佐久本嗣男氏だ。佐久本氏の功績もあり、劉衛流は広く名を知られるようになった。
劉衛流は、宗家二代仲井間憲里(1819~1879)が清朝の武官養成所の首席師範だった始祖劉龍公(ルールーコー)に学んだとされる。憲里は19歳で中国福建省に渡清留学し、劉龍公の下で修行を積んだ。術、技の解説書「武備志」などを授かり、中国各地を遊学した後、26歳で帰国した。
那覇手は久米村(くにんだ)の三十六姓の子孫に継承された中国拳法の影響を受けたといわれている。久米村に生まれた憲里は、琉球王府に使える士族で、船も所有する資産家だった。冊封使の護衛武官だったワイシンザンという人物が憲里に目をかけ、渡清をあっせんしたと憲児さんは推察している。
劉衛流の形の説明をまとめた劉衛流空手形全集によると、家憲に「わが流儀の無手の法・段の巻は余人にあたうものにあらず、一子相伝し、みだりに発動すべからず」とある。教えは三代憲忠(1856~1953)、四代憲孝(1911~1989)が秘密裏に受け継いできた。
憲児さんは、父の憲孝氏と親交が深かった剛柔流の開祖、宮城長順がたびたび羽地村の田井等(現名護市)の家を訪ね、父と空手談義していた記憶がある。宮城から「あなたたちの(空手)は本物だから手を加えて動かしてはいかん」と何度も聞かされた。「おやじが『あなたの拳にかかれば、われらはどうにもならない』と言うと、長順先生は『私の拳が届く前にあなたの足が飛んでくる』と応えていた。お互いに尊敬し合うところがあった」(憲児さん)。
戦後間もなく、憲児さんは父から流派の門戸を開くかと相談を受けた。憲児さんは「稽古は厳しかった。時流から一子相伝は難しかったのだろう」と父の心境をおもんぱかる。屋我地小中学校の校長として憲孝が子どもたちに空手を教えていた時、「変わった空手をする人がいる」とうわさを聞きつけたのが、1970年に名護高に赴任した佐久本氏だった。
佐久本氏は憲孝に何度も拒まれたが、どうにか入門を許されたという。その後、佐久本氏が那覇高や浦添高に赴任して教え子を鍛えつつ、世界の頂点に立つことで劉衛流の名を広く知らしめてきた。
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