「平和」の診療所に込めた中村哲医師の思い 活動停止に「心の中で泣いた」


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沖縄平和賞記念シンポの後記者会見する中村哲氏(中央)=2002年8月

アフガンから消えた「オキナワ」…ペシャワール会「平和」の診療所、戦禍が追い込む から続く

 

 アフガニスタンは国土の大半を山岳地帯が占める。ペシャワール会の現地事業体PMS(平和医療団・日本)は、医療が行き届かない小さな村で「1日中診療、急患なら夜でも診る」という診療所を展開した。パキスタンとの国境クナール州のダラエ・ピーチにも1992年、借家の診療所を開設。2003年には県から同会に贈られた「第1回沖縄平和賞」の賞金を使って同じ場所に新たなクリニックを建設し「オキナワ・ピース・クリニック」と名付けた。

 同会理事でPMS院長補佐の藤田千代子さん(62)は「数年で活動を終える外国団体もあり、現地の人は途方に暮れていた。借家ではなく新築のクリニックができたことは、その地で腰を据えて医療活動をするという意志の表明になり、人々に大きな希望を与えた」と振り返る。

 しかし、米国の支援による新政権の発足後、医療行政は混乱。PMSは外国団体の傘下になり、クリニックは政府に委譲された。テロへの報復として空爆を正当化する米軍や、米国を支持する日本への不満は募り、治安は悪化。「援助団体が米軍の武力に守られながら押し寄せるなら、存在意義も薄れる」とのペシャワール会現地代表だった故中村哲医師の判断もあり、クリニックは2年足らずで活動停止に追い込まれた。

 中村医師は当時「怒りをこらえて『復興』の結末を報告せざるを得ない」と、会報で詳細に報告した。現地から最後の医療チームが戻った時、「心の中で泣いた」とつづっている。

 平和を発信する目的で創設された第1回沖縄平和賞の支援で建てられたクリニックは、戦争と混乱の中でPMSの手を離れた。藤田さんは当時を思い出し「悔しい」と漏らした。

 政情が混迷する20年の間も干ばつは続いた。「アフガニスタンには今も死にかけている人々が大勢いる。国際社会はその人々に何をしてやれたのか」。藤田さんは、医療支援よりも治水事業に注力する現状に葛藤しながら、支援の在り方を問う。

 2019年12月に中村医師が凶弾に倒れた後も、同会は現地の人々の協力を得て治水工事を進めている。用水路は現在、かつてオキナワ・ピース・クリニックがあったクナール州近くまで延びているという。

(稲福政俊)

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