「生活の中の首里城」地域住民が描く再建の形 首里城焼失2年


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首里のまちづくりについて語る(左から)いのうえちずさん、伊良波朝義さん、平良斗星さん=20日、那覇市首里真和志町の龍潭前

 首里城が焼失して2年を迎えた。あの日、県民は燃えながら崩れ落ちる様子に衝撃を受け、沖縄全体に喪失感が漂った。しかし、失われたことで首里城の存在意義を改めて考える機会も生まれた。もっと身近に感じられようにするにはどうしたらいいだろう。もっと魅力を知ってもらえるようにするにはどうすればいいだろう。首里城が復元される「その日」に向け、県民一人一人が「私たちの首里城」を思い描いている。

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 首里城を中心に広がる首里の地図。病院や学校、スーパーなど、現在の施設に加え、琉球王朝時代に王世子(次期国王)が住んだ中城御殿や、守礼門と対をなしていた中山門など、未整備の歴史的建造物も同じ地図上に示されている。首里まちづくり研究所(すいまち研)が作成した「首里杜地区・首里歴史エリアまちづくりマップ」は、現在と過去が重なり合う。

 火災から2年。すいまち研の伊良波朝義理事長(54)、いのうえちず副理事長(52)、平良斗星副理事長(51)らは、地域の人々とともに「生活の中の首里城」を考え続けてきた。

 「金城町の石畳を下りたら、もう上りたくないほどの坂だ。下りたところでバスに乗れたらいいのに」
 「首里は高齢化率が高い。お年寄りが病院やスーパーに行けるようにするには、どうしたらいいか」
 「昔は龍潭で遊んでいたという声は多いが、今は禁止されていることばかり」

 地図を見ながら交通や地域の課題、解決のアイデアを出し合うと、話は尽きない。城下町全体を捉え、伝統文化の復興や生活の利便性を追求する。

 火災以前、首里城は地域の人々にとっても「観光地」で遠い存在だった。火災後は「地域と一体となった首里城」を目指し、シンポジウムを開催したり、首里を学べる「すいまち検定」を実施したりと、さまざまな自主事業に取り組んだ。首里杜地区まちづくり団体連絡協議会(首里杜会議)の一員として、行政にも課題解決の方策を提言した。

 常に意識するのは「50年後、どんな首里のまちにしたいか」。伊良波理事長は「子どもの頃に親しめないと、大人になっても愛着が湧かない。暮らしの中に首里城を位置付けていきたい」と話した。


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