“ヒップホップクイーン”Awichがつなぐ「沖縄の心」 戦争生き抜いた人たちがいて、自分がいる 


“ヒップホップクイーン”Awichがつなぐ「沖縄の心」 戦争生き抜いた人たちがいて、自分がいる 
この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子

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「ありったけの地獄を集めた」と表現される地上戦が繰り広げられた沖縄では、県民の4人に1人が亡くなった。  

沖縄出身の人気ラッパーAwich(エーウィッチ)さんは、幼い頃から家族の戦争体験を聞いて育った。  

日本軍の兵だった祖父、戦時下に生まれ戦後の厳しい暮らしを知る父…。身近な人の体験を聞くことは、Awichさんにとって「とても尊い財産」だという。この夏には伯母を訪ね、戦争で犠牲になった家族のことや戦中戦後の話に耳を傾けた。  

戦後、Awichさんの母が通っていた学校に米軍ジェット機が墜落した。その58年後、今度は娘の通う小学校に米軍ヘリの部品が落下した。夫を亡くし失意に暮れていたときには、父の言葉が再起の力になった。

厳しい時代を生き抜いた故郷の先人たち。不条理の中で力強く羽ばたこうとしている子どもたち。Awichさんは「沖縄の心」に向き合い続けている。


南国特有の強い日差しがまぶしい7月末。「日本のヒップホップクイーン」の異名を持つ沖縄出身のラッパーAwichさん(36)が、父の姉にあたる武富ゆき子さん(90)のもとを訪れた。「もう身内で戦争体験を語れる人は、ゆきおばさん1人だけ。今のうちに聞いとかなきゃっていう思いはすごくある」

祖先が見守る仏壇の前に座り、対話が始まった。

伯母の戦争体験に耳を傾けるAwichさん=2023年7月30日、那覇市内

ゆき子さんは那覇の港町、通堂(とんどう)町で生まれ。1944年10月10日。11歳のとき、米軍による初めての大規模な空襲「10・10空襲(じゅうじゅうくうしゅう)」が沖縄を襲った。ゆき子さんや家族も自宅を焼け出された。

10・10空襲を皮切りに、沖縄は地上戦を伴う苛烈な戦争へと突入していき、県民の4分の1が命を失った。その中には日本軍が兵力を補うために集めた14~19歳までの「学徒隊」もおり、ゆき子さんの兄・直義さんもその1人だった。記録や友人らの話によると、爆弾を抱えて米兵のもとへ飛び込んで亡くなったという。

兄の死を知ったときの気持ちや母の様子、ゆき子さんにとってその記憶はおぼろげだ。「悲しかったか? 悲しいどころじゃないさ。でも実感はなかった」

前々から伯母の話を聞いておきたかったというAwichさん。「怖いとか、戦争が終わってうれしいとか、家族が死んで悲しいとか、そういった感情の部分を知りたかったけど、(伯母は)あまり覚えていないと言う。その時を生きた人じゃないと分からない命に対する価値観みたいなものがあると思う。生き抜いた人のしたたかさ、強さは感じました」
そしてこう続けた。「自分の中にもその強さはあると思いますね。沖縄で受け継がれてきた困難を生き抜く力というか。そういうものはあるんだろうなって」

夫と娘、3人の家族写真(Awichさん提供)

米国留学中に結婚し、長女を出産したAwichさん。2011年に夫は事件に巻き込まれ、銃弾を受けて帰らぬ人となった。失意のどん底からはい上がるきっかけを与えたのは父・直行さんの言葉だった。

この記事は琉球新報社とYahoo!ニュースによる連携企画です。


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