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「ハワイ報知」が創刊111年の歴史に幕 沖縄からの移民社会で重要な役割 戦争で荒廃した故郷の救済「ハワイから豚」も橋渡し


「ハワイ報知」が創刊111年の歴史に幕 沖縄からの移民社会で重要な役割 戦争で荒廃した故郷の救済「ハワイから豚」も橋渡し 戦争直後の沖縄の苦難や沖縄住民の救済などを呼びかける記事が相次ぐ1945年10月~1946年4月ごろにかけての「ハワイ報知」の複写(仲程昌徳さん所有)
この記事を書いた人 Avatar photo 古堅一樹

 米ハワイ州で唯一発行されている日本語の日刊新聞「ハワイ報知」が、創刊111年の記念日に当たる12月7日付の新聞を最後に廃刊する。同社のウエブサイトで発表した。沖縄から多くの人々が移民として渡ったハワイ。異国の地でいくつもの困難を乗り越え、戦禍にも直面した県系人らにとって重要な情報源となった。戦後は、沖縄戦で焦土と化した沖縄の住民の苦難も伝え、ハワイの県系社会から救済活動の機運を高めるきっかけにもなった。ハワイと縁が深い沖縄の人々からも廃刊を惜しむ声が上がっている。ハワイ報知と沖縄のつながりについて調べた。

 ハワイ報知の創刊は1912年12月。沖縄からは、1899年を皮切りに大勢の移民が続々とハワイへ渡っていた時期だった。ハワイと沖縄、日本を結ぶ新聞として、ニュースに加え、琉歌や短歌、詩、小説などの文学作品も掲載した。

苦難の中、ウチナーンチュの思いは

 長年、沖縄文学の調査・研究を続ける中で、ハワイ報知も貴重な資料として活用してきた元琉球大学教授の仲程昌徳さん(80)は、廃刊にショックを受け、惜しむ。「ハワイの県系人にとっても大きな損失だ。遠いハワイのことを知りたい沖縄の人にとっても痛手。ハワイ(の県系や日系の社会)でどういう動きがあるのかについてこれまでのように直接、知ることができなくなる」と残念がる。

 沖縄戦で多くの犠牲者を出し、衣食住にも困窮していた沖縄の住民を救済する運動が戦後にハワイの県系人の間で活発になったのも、ハワイ報知など日本語新聞の役割が大きかった。

衣類を募集する運動について伝える1945年11月30日付のハワイ報知の複写(仲程昌徳さん所有)

 例えば1945年10月18日付のハワイ報知には、キリスト教の牧師で文学作品も多く創作した沖縄出身者の比嘉静観さんの寄稿が載った。見出しは「我等の尊むべき義務/特に在留沖縄懸人へ呈す」。寄稿で比嘉さんは「九万人の我が同胞は悲惨な最後を果げ、而して生き残った二十万の憫(あわれ)むべき同胞は衣食住に窮しているとの事」「沖縄の苦難にあえぐ同胞を救済せよとの声は高い」などと戦争直後の苦しい故郷の様子を記した。

 1945年11月30日付のハワイ報知には「沖縄住民救済の衣類募集運動」との見出しで、沖縄へ送る衣類を募集する運動について紹介している。1948年に、食糧難の沖縄へハワイの県系人らが豚550頭を送った救援活動も、ハワイ報知などを通して、故郷の苦しみを知った。

 こうした動きにつながった紙面に残る記事について、仲程さんは「ハワイと沖縄がどれだけ強くつながっているのかが分かる。これまでの沖縄とハワイの深い関係があるからこそ、(8月に)マウイ島で起きた山火事の際も、義援金が沖縄ハワイ協会などの呼びかけで集まった」と指摘する。

琉球新報からハワイ報知へ特派

 ハワイと沖縄は、新聞社同士でも交流してきた。元琉球新報社社長の親泊一郎さん(91)は、現場記者だった1958年10月から約1年間、ハワイ報知へ特派員として派遣された。当時の沖縄はまだ戦後の米統治下。世界を代表する国として、アメリカへのあこがれを多くの人が抱いた。親泊さんも「ハワイ、アメリカを見てみたい」との思いからハワイ行きを強く希望し、琉球新報とハワイ報知が業務提携を結び、特派が実現した。

ハワイの日本語新聞について語る親泊一郎さん(右)と仲嶺和男さん=琉球新報社

 親泊さんは、ハワイ報知に派遣されている期間中、沖縄の文化や復興へ向かう様子などをハワイにいるウチナーンチュたちへ紙面や講演、イベントなどを通して伝えた。特派されている間に琉球舞踊や沖縄芝居など、琉球芸能の実演家も招いた舞台公演も開催したという。

 琉球新報が掲載した記事をハワイの県系人の読者向けに親泊さんが再構成し、ハワイ報知へ掲載した。「沖縄のニュースをリライトして載せることで、沖縄が復興していく姿を伝えることができた」と振り返る親泊さん。ハワイ報知の廃刊が決まったことに「僕からすると、ショックだ。寂しくなる」と語る。一方で「なぜそうなるのかは予想はつく」と話し、沖縄、日本からハワイへ移民した人々は高齢化し、日本語を読める人口が減っている状況を指摘する。

 1977年から2020年12月までハワイで発行された日本語新聞「ハワイパシフィックプレス」は、ハワイ報知の印刷所で、印刷していた。琉球新報社の記者を経て、「ハワイパシフィックプレス」を創刊し、編集発行人を務めた仲嶺和男さん(83)は「1990年代半ばの多い時期には6000部を発行した」と振り返る。

 異国で生活する移民にとって、生活を安定させるのは簡単なことではない。そんな中、ハワイには新聞に加え、金融機関にも日系の銀行「セントラル・パシフィック・バンク」がある。仲嶺さんは、移民先で新聞と銀行の両方に、日系の企業があった効果は大きいことを指摘し「(沖縄出身者を含めた)日系人が成功した大きな理由の一つかもしれない」との見方を示す。情報を共有し発信する手段や、経済的にも支え合える社会状況が続いてきた意義を強調する。

「新聞を取り巻く環境が変化」

 移民先で県系人、日系人らに支持され、1世紀余も続いてきた中、廃刊せざるを得ない理由について、ハワイ報知社の吉田太郎社長はウエブサイトで「新型コロナウィルスの感染拡大以降、ホテル、航空会社など大口の購読者のキャンセル」があったことを挙げた。さらに、受託印刷の取引先である新聞が紙面発行を廃止し、電子版に移行したことも重なり「新聞および印刷を取り巻く環境が大きく変化した」と説明する。

「ハワイ報知」廃刊を知らせる同社のウェブサイト

 「若い世代は(インターネット、SNSなど)オンラインでも発信している」と話す元琉球大学教授の仲程さん。「ただ、新聞は振り返って確認したい場合に、手に取って見ることができる。手触りが違う。どうにかして復活してもらいたい」というのが本音だ。

 復刊は難しくても、戦前や戦中・戦後のハワイの沖縄関係者の動向が分かるハワイ報知や、ハワイタイムスを貴重な記録として、紙面を沖縄でも読めるようにしてもらいたいと考えている。「マイクロフィルム版の形でもいいので、県立図書館などで読めるようにして、こうした新聞があったという痕跡だけでも残したい」と話し、貴重な記録を次代へつなげてほしい思いを込めた。

(古堅一樹)