18日に開催された「第29回2024おきなわマラソン」は快晴の下、ランナーたちがそれぞれのペースでゴールを目指した。おきなわマラソンと言えば、他の大会にはない特徴として米軍嘉手納基地内を通ることが挙げられる。普段、入れない基地内のコースは、どんな様子なのか。なぜ基地内にマラソンコースがあるのか。実際にコースを走りつつ、関係者に取材し疑問や謎に迫った。
体力消耗の中、ゲートに入ると・・・
嘉手納基地内のコースは約2・4キロ。入り口は、沖縄市の通称「ゲート通り」に接する「第2ゲート」。フルマラソンのスタートから30キロ前後の地点だ。ランナーたちは、かなり体力を消耗した段階で基地内に入り、普段と異なる光景が目に入ってくる。
「イエー!」「レッツゴー!」。体格の大きな米兵や基地関係者、その家族らがコース沿いでランナーへ次々に声援を送る。基地関係者の子どもたちによるエイサーでもエールを送る。基地内に2カ所ある給水所ではその米兵や基地関係者らが列をなしてランナーにコップを手渡し、給水を支援する。参加した県内外のランナーから「アメリカの方々が盛り上げてくれた」「きつかったが、アドレナリンが上がった」などの声も聞かれた。
嘉手納基地で航空整備士として勤務する米兵の男性(24)は基地内のコース沿いで初めて給水の支援などに参加した。ボランティアへの参加は「上司から指揮系統で降りてくる」と話し大会について「素晴らしい。とても大事だ。地域に密接に関われる機会」と語る。
きっかけは意外な発想から
そもそも、なぜ基地内にコースを設定することになったのだろうか。コースの設定に関わった関係者は、県民から異論がなかったわけではないと明かす。大会の歴史をさかのぼると、意外な理由が隠されていた。
おきなわマラソンを主催する実行委員会で初代会長を務めていたのは当時の沖縄市長・新川秀清さん(87)だ。過重な基地負担の軽減を求めてきた革新陣営が擁立し、市長に当選した新川さん。大会が始まった当初について「基地反対と言いながら、基地のコースを作るということは、基地を認めるのか」などの意見もあったと振り返る。しかし、嘉手納基地内のコース設定は、基地を認める立場とは逆の発想から始まったという。
第1回大会は1993年3月。嘉手納基地内のコースは第1回から設定され、今も続く。おきなわマラソンの出発点について新川さんは「『中部が心を一つにして取り組めるイベントをしたい』ということだった」と振り返る。
1991年には、宜野湾市や西原町が新たに加入するなど、12市町村に拡大していた「中部広域市町村圏事務組合」の全市町村がまとまって協力するイベントとしてマラソンを開催することになった。そこで問題になったのが「コースをどう設定するのか」だった。
「基地をぶち抜いて作るしか」
なるべく中部の広域にまたがるコースを設定しようとしたが、病院近くは交通規制をしたくないので避けるなど、条件を満たしつつ、中部全域を網羅するコースを検討したが、基地を回り込みながら設定しようとすると、なかなか難しかった。
主催団体の一つ、琉球新報社で当時の中部支社長を務めていた山根安昇さんとも相談し「嘉手納基地をぶち抜いてコースを作るしかない」という結論に至った。交通規制や警備を担当する当時の県警交通部長にも相談したところ「協力する」との返答があった。
最大の難関は、米軍側の了解をどう得るのか。新川さんらが基地内コースについて要請すると、嘉手納基地の司令官は「言っていることは理解できる。私の権限でできることは協力する。検討させてほしい」と返答した。欧州などへの駐留経験のある司令官は沖縄での米軍の駐留の在り方についても率直に意見交換し、沖縄側に協力する姿勢を示したという。新川さんらは、その後も交渉を繰り返し、嘉手納基地内のコースが認められた。
コース沿いには何がある?
基地内コース沿いには米兵やその家族らが使うフィットネスクラブ、テニスコートなどいくつもの広大な運動施設や商業施設、カデナハイスクール、宿舎などもある。
こうした光景を踏まえ「本来は、私たちが使うべき土地だ」と強調する新川さん。最終的には基地を返還すべきだと考える。その上で「今は普段、入れないが、せめてイベントの1日だけでも使えるようにすることで、基地を見る機会になる」と捉える。
嘉手納基地内のコースは新川さん自身にとっても縁の深い場所だ。コースの出口にある第5ゲート付近には沖縄戦前、新川さんが子どもの頃に住んでいた越来村仲原(なかばる)の集落があった。新川さんは「私たちの古里だった地域がどのように米軍に使われているのか、(マラソンコースを走ることで)感じることができるはずだ」と語る。
戦時中、空襲が起きると、新川さんは仲原の家から近くの知り合いの墓へ避難した。第5ゲート付近に今もあるガジュマル付近にも民家があったが、ほかの場所は当時の面影もないぐらい改変されているという。「走りながら、これでいいのか、古里はこうなっているんだと感じてほしい」と思いを込めた。
(古堅一樹)
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