「電波堂ビル」久茂地のランドマーク、半世紀の歴史に幕から続く>>
那覇市久茂地地域のランドマークとして親しまれてきた「電波堂ビル」が老朽化で取り壊されることになった。
現在、久茂地川沿いにある2棟の建物のうち、スペースアートビル(旧電波堂ビル)のほうが歴史は古く、1962年に建設された。当時、ビル1階には電器店の「電波堂本店」が入居し、最新鋭のカラーテレビやステレオなど常に時代の最先端をいく家電やAV機器を取り扱っていたが、75年ごろ閉店し、業態を不動産業に転換した。
ビル2階には沖縄唯一のソニーステレオミュージックホールが設けられ、数多くのコンサートが開かれた。ホールは87年には県民アートギャラリーに変わり、増設された3階はギャラリー&ホール「スペースアート」となった。エレクトーン奏者として活動していた紀々さんもスペースアートで何度かコンサートをした経験があるという。
スペースアートはその後「スタジオ紀々」を経て、2016年に「電波堂劇場」に衣替えした。電波堂劇場はスタジオパフォ(西平士朗主宰)が拠点にするなどミュージカルの稽古場などとしても重宝された。グランドピアノが置かれていたため、音楽コンクール出場者の練習場などとしても利用された。
紀々さんは「那覇市内には、なはーとや琉球新報ホール、パレット市民劇場など多くのホールがあるが、週末や早朝夜間の練習やリハーサルができ、かつピアノのある場所が市内にほぼないと、県内外から多くの方に来ていただいた」と振り返る。
スペースアートビルに隣接する電波堂ビルは、1974年に地上10階建て、県内初の立体駐車場を完備する貸しビルとして誕生した。金融機関や旅行、不動産会社などさまざまな企業が入居したほか、屋上がゴルフ練習場として利用されていた時期もある。
紀々さんの祖父で電波堂創業者の故新川唯介さんは1919年、現在の八重瀬町東風平に生まれた。
県立二中を経て東京目黒高等無線学校を卒業後、40年に日本軍福岡第24連隊に入隊。ビルマやインパールなどアジアの戦地を転々とした。終戦後に沖縄へ戻り、電気関係の知識を生かして米国軍政府の通信部に技術員として勤務。49年に独立し、那覇市牧志の国際通りにウェーブラジオ社を設立し、通信機器の修理や製作のほか、有線放送などを手掛けた。
新川さんは生前、ソニー創業者の井深大や盛田昭夫と交流があったという。2人との縁もあり、ソニー沖縄総代理店として、県内の主要電気店や在沖米軍にトランジスタラジオなどを販売した新川さん。会社を二つに分離して小売業の「電波堂」を開業、卸売業として沖縄ソニーを立ち上げた。
紀々さんは生前の新川さんについて「とても優しくて、『前を向いて生きなさい』が口癖の人だった」と振り返る。
時代とともにさまざまな表情を見せてきた電波堂ビル。紀々さんは「私も祖父のつくった電波堂に思い出がいっぱいある。何度も閉じることを考えたが、多くの人に支えられてここまで来られた」と感謝する。
スペースアート誕生時から多くの人に演奏されてきたグランドピアノは現在、那覇市首里のカフェレストラン「リリーローズ」に置かれ、音色を届け続けている。
(吉田健一)