Vol.7 なぜ今、しまくとぅばなのか? 新しい学びと入試改革に対応するMANALAB★


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もっと深く、広く知る

 

 さて、今回は「なぜ、今しまくとぅば?」をテーマに問いを深めるニュースを琉球新報の紙面で紹介しました。

 沖縄の若い世代が普段使っている「ウチナーグチ」を「ウチナーギャル語」として紹介する本も出ているそうです。「あんまさい(面倒くさい)」から派生して「まさい族」。「カフェなう」ではなく「カフェなま」など。みなさんも、ウチナーギャル語、使っていますか?

 

 それでは言葉と社会の関係をもっと広く捉えるために、情報や視点を広げてみましょう。

1.世界の消滅危機言語を研究者などが議論。
もちろん琉球諸語も。

 2009年に、琉球諸語がユネスコ発表の「消滅の危機にある世界の言語」に含まれて以降、琉球諸語を継承するための取り組みは、人々の自主的なもの、県や市町村など行政が主導するものなどが行われてきました。

 それに加えて、危機言語大会のように、学者が世界から集まって学術的に話し合う議論の場もあります。
 

ふるさとの言葉を海の向こうで学ぶ人たちもいる

 沖縄は歴史的に多くの人々を海外へ渡る移民として多く輩出してきました。その渡航先には、沖縄県人会が多く誕生していますが、その県人会でもウチナーグチ講座が開かれているところがあります。

 沖縄を離れても、沖縄の言葉を学ぼうとする人たちがたくさんいるんですね。
 

3.言語は人がつながる手段になり得る

 移民とウチナーグチの関係を見ると、このような心温まる話もあります。移民した先ブラジルで公用語となっているポルトガル語を話している女性、沖縄で日本語を主に話す2人の女性。3人が姉妹として連絡を取り合い、再会して交わした言葉はウチナーグチでした。

 ウチナーグチによって、姉妹の絆を確認し、コミュニケーションしたという話です。
 

4.立ち止まって考えたい
「私が話す言語=自分で選ぶもの?回りが決めつけるもの?」

 少し、視点を変えてみます。タムリンソンさんは、アメリカ人と日本人の親のもとに生まれ、人生の長い期間を沖縄で育ちました。しかし、小学校、中学校、高校、大学まで回りの人に「英語しゃべられるの?」と聞かれたといいます。

 沖縄で育っていても、ルーツに外国があれば「英語は当たり前」ですか? 言葉って、どのように習得するのでしょう。そして、タムリンソンさんの周りの人たちは、どうして、どんな考えで「英語しゃべられるの?」と当然のように聞いてしまうのでしょうか。

 言葉と人間を考える上で、ヒントになる記事です。
 

5.外国をルーツにもちながら、
しまくとぅばの普及に努める人もいる

 

 続いて、宮里・モラノ・ジュンさんのインタビュー記事を紹介します。宮里さんは、しまくとぅばの継承、英会話教室に長年取り組んでいます。

 宮里さんも外国ルーツの1人。自らのルーツと、沖縄の歴史、しまくとぅばの学習がすべてつながって、今の活動をしているそうです。

6.子どもの頃に学ぶのは英語?それともまずは日本語?

記事:小学英語教科化 母語を学び継承してこそ

 さて、この記事は琉球新報の2013年の社説です。小学校で英語を教科として学ぶかどうかは長い間、議論が続けられてきました。その結果、来年度2018年度の小学校3年生から先行的に英語が授業として始まります。

 現在でも「日本の英語教育は文法重視で実用的でない」「早いうちは母語の基礎を築くべき」など議論は止みません。みなさんは、どう考えますか?
 

7.考えてみたい。
なぜ「日本語分かりますか?」が問題視されたのか

記事:「日本語分かりますか」防衛局員が暴言
新基地抗議の市民「差別」と反発

 ここまで、言葉と人、言葉と社会の関係をいろいろな視点で考えてきました。最後は、最近の沖縄のニュースから。

 この記事は、なぜ「日本語分かりますか」と発言したことが、ニュースとなるのでしょうか。「差別だ」と指摘を受けるのでしょうか。

 みなさんが吸収した知識、みなさんが集めた情報、解釈、自分の体験や感覚に基づいて、言葉で説明してみても、いい練習になるはずです。
 

 今回のテーマでは沖縄の言葉のことを、琉球諸語、しまくとぅば、うちなーぐち、沖縄方言などとさまざまに表現されています。

 意味やどのように使い分けられているか整理しておきましょう。「呼称」から見ても、人々の意識や歴史が見えてきますよ。

琉球諸語

奄美語、国頭語、沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語を総称した言葉。琉球列島や琉球諸島と呼ばれる弧状に並んだ島々で話されてきた言語をまとめて表現している。
 

しまくとぅば

 沖縄の島々で話されてきた言葉を意味して使われる。それぞれの島で話されてきた言葉が異なることや、過去に沖縄本島と八重山・宮古など離島が差別、被差別の関係にあった歴史も背景にして「しまくとぅば」と総称する。沖縄県の普及・継承活動などは「しまくとぅば」という呼称が正式に用いられている。

うちなーぐち

 琉球諸語のなかの一つである沖縄語を意味する。主に沖繩本島中南部で話されている言語、首里言葉、小禄言葉などを含めたもの。しかし、現在は沖縄県内外で「沖縄の言葉=うちなーぐち」と広い定義で使われることも多くなっている。

沖縄方言

  日本国内の一地方で話されている言葉として「沖縄方言」と表現されることがある。しかし、沖縄県内外では沖縄が昔、琉球国という独立した国だったことから「方言ではなく、一つの言語である」という立場に立ち、「沖縄方言ではない」と否定の立場をとる議論もある。

 

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 ちなみに今回、この記事で紹介したニュースはすべて琉球新報のサイト内で探した記事です。

 ほとんどの新聞社のサイトにサイト内検索機能があるので、活用してみてください。インターネットは誰もが情報を発信できる便利さの一方、信ぴょう性の低い情報も混ざっています。学習や入試の時事問題対策で情報を収集するときは、サイト内検索を活用することをおすすめします。

 

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しまくとぅばの日

 しまくとぅばの普及継承を図ることを目的に、2006年制定された。沖縄県の「しまくとぅばの日に関する条例」に定められた日。く(9)、とぅば(18)の語呂合わせから毎年9月18日。地域の言葉を奨励する条例の制定は、日本国内で初。
「しまくとぅば」とは沖縄の島々の言葉という意味。

しまくとぅば普及推進計画

 沖縄県が2013年度に策定。2022年までの10年間でしまくとぅばの使用頻度を「あいさつ程度使う」まで含め30ポイント上げることを目標としている。

琉球処分

 明治維新に伴い、1872年、明治政府は琉球国を廃して琉球藩とし、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王(国王)自ら上京することなどを再三迫った。が、琉球が従わなかったため、79年3月、処分官・松田道之が随員・警官・兵あわせて600人を合わせて来琉、武力的威圧のもとで、3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、ここに事実上琉球国は滅び、沖縄県となった。

日中戦争

 1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋付付近で起きた日中両軍の武力衝突(盧溝橋事件)をきっかけに始まった日本の中国に対する侵略戦争。日本軍は大量に軍隊をつぎ込み、中国軍からの抵抗を受けながらも12月には国民政府の首都・南京を占領した。41年にアジア・太平洋戦争に拡大したのち45年の日本のポツダム宣言受諾・無条件降伏で終わった。

国民精神総動員運動

 1937年の日中戦争開始後、第一次近衛内閣により行われた国民を戦争に協力させるための運動。38年には帝国在郷軍人会、全国神職会、全国市長会、日本労働組合会議など多くの団体が参加、内閣の外郭団体として国民精神総動員中央連盟が結成された。初めは精神運動が中心であったが、しだいに貯蓄奨励、国債応募、国防献金奨励、物資節約などの物的運動が加わった。

 39年には総理大臣のもとに国民総動員委員会、道府県には主務課が設けられた。さらに40年、首相を会長とする国民精神総動員本部が設けられ、中央連盟を吸収した。そして同年10月、大政翼賛会が生まれ、本部を吸収するにいたった。
 

標準語励行運動

 1939年、沖縄県は「沖縄県教育綱領」を作成し、その努力事項の一つとして標準語励行を取り上げた。続いて翌40年にはこれを県方針に取り入れて、県を挙げた一大運動として展開した。この運動の背景には、国民精神総動員による国家意識の高揚という政府の政策があった。方言撲滅運動を意図したようなやり方で、その結果、方言蔑視、郷土否定の風潮を生んだ。

沖縄戦

 1931年の満州事変から始まり、日中戦争、アジア・太平洋戦争へと続いた「十五年戦争」の末期に起きた日米最大の戦闘。1945年3月26日に米軍は慶良間諸島に上陸。その後、沖縄本島、周辺離島などで戦闘が続いた。約3カ月に及ぶ住民を巻き込んだ地上戦。米英軍による無差別攻撃で当時の県民の4人に1人にあたる約12万人の沖縄県民が亡くなった。これは正規軍人を上回る犠牲者数。軍民混在の中、日本軍による壕の追い出し、スパイ容疑による殺害、「集団自決」(強制集団死)も起きた。

しまくとぅば普及推進専門部会

 2013年度から沖縄県によって設置された有識者などによる団体。文化団体などのネットワーク機能を持ち、しまくとぅば普及推進計画を策定。沖縄県に提案などを行っている。

国連教育科学文化機関

 教育、科学、文化の発展と推進、コミュニケーションや情報の分野を通じて、平和の構築、貧困の撲滅、持続可能な開発や異文化間の対話を目的とする国際連合の専門部会。United Nations Educational,Scientific and Culture Organizationを略して、UNESCO(ユネスコ)と呼ぶこともある。

サンフランシスコ講和条約

 日本と米国など48カ国が1951年に、米国の都市サンフランシスコで署名し、1952年に発効された条約。内容は、日本が支配していた朝鮮と台湾を手放し、米国が沖縄、小笠原諸島、奄美諸島を支配することを認めるもの。米軍基地がなかった奄美諸島が先に返還されると、与論島と沖縄本島の間の海は、北緯27度を境に国境が引かれた。

屈辱の日

 1952年発効のサンフランシスコ講和条約で、日本は国際社会で一国家として主権を回復したが、沖縄、小笠原諸島、奄美諸島は依然アメリカに支配され続けることが決まった。そのため沖縄県内では、当時を振り返って条約が発効された4月28日を「屈辱の日」と呼ぶ動きがある。これは現在も沖縄に過重な負担が偏った米軍基地問題と地続きの史実として語られている。

自己決定権

 自分のことを自分で決める権利。国家の独立と内政不干渉の権利。沖縄県内では、過重な米軍基地負担に対する日本政府への抵抗として唱えられる「沖縄のことは沖縄で決める」という解釈で「自己決定権」という言葉が用いられる。その他、元来の意味には病気の治療の方針を自分で決めるなどがある。

 

ハワイの主権回復運動

 1810年に誕生し、諸外国と条約を結んで、1843年にはイギリスとフランスが独立国家として承認されていたハワイ王国。やがてキリスト教の宣教師が政府機構に入り込み、白人勢力が権力を拡大し、先住民族カナカマオリを排除した。白人勢力は女王を追放し、王位を剥奪した。

 1898年、アメリカ大統領はハワイ併合を承認した。

 ハワイではアメリカに併合されて以降、ハワイ語が禁止された。ハワイ語の新聞も止めさせた。しかし、1950年代以降、アメリカ本土で起こっていた公民権運動の影響が波及し、ハワイではアメリカ人としての権利とハワイ人として主権を回復する議論が盛んになった。

 その結果、ハワイ語の回復やハワイの文化を継承しようという活動が起こっている。

 カナカマオリは1987年、自治組織カラフイ・ハワイを結成して「米国内国家」の実現を目指している。国連は1998年、ハワイは国連の非自治地域リストに登録されるべきだと勧告した。

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