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空襲の中、3人の子守る 瀬長フミさんと亀次郎さんの体験(4) 母と父の戦争<読者と刻む沖縄戦>


空襲の中、3人の子守る 瀬長フミさんと亀次郎さんの体験(4) 母と父の戦争<読者と刻む沖縄戦> 瀬長亀次郎さん(1950年代)
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 不屈館館長の内村千尋さん(78)=那覇市=の母、瀬長フミさんは1944年8月、2人の子を連れて九州に疎開し、宮崎県延岡市にいた妹の八重さんの元に身を寄せます。45年3月、千尋さんが生まれます。

 その頃から延岡市は空襲に遭います。6月末、「沖縄玉砕」の報が伝わります。フミさんの自伝「熱い太陽のもと 激動の島に生きる」によると、延岡でも不安が広がり、田舎の親類を頼って慌ただしく疎開する人がいました。フミさんは「心の底で『きっと生きていてくれる』というかすかな望み」を抱き、延岡にとどまりました。

 沖縄に残った亀次郎さんが庶務課長として勤めていた県農業会では米軍上陸前、南部に疎開するか、北部に疎開するかで意見が分かれたといいます。

 自伝「瀬長亀次郎回想録」によると、亀次郎さんは「軍隊と一緒だとかえって危ない。北部の山原は安全だ」と主張しました。当時の会長は、1950年に沖縄群島知事に就任し、沖縄社会大衆党(社大党)の初代委員長となる平良辰雄さんです。

 6月29日、激しい空襲が延岡を襲います。フミさんは3人の子を守るのに懸命でした。千尋さんは「延岡は大空襲に見舞われ、防空壕に隠れる日々だったようです」と語ります。

 フミさんの手記はこう記します。「長女は弟をかばい、私は生後四カ月の千尋が煙で息が詰まらないかと毛布でくるみました。熱気と煙でのどはカラカラです」